読者が自らの体験を綴る、『婦人公論』の恒例企画「読者ノンフィクション」。2019年も、100篇を超す投稿のなかから、子育て、介護、逆縁──女性の人生に立ちはだかる困難を描いた3篇が選ばれました。厳しくも愛のある俳句の選評で人気の夏井いつきさんは、どう読み解くのでしょうか(構成=山田真理 撮影=本社写真部)
ノンフィクションと俳句、その違いとは
ふだん私が相手にしているのは、俳句という17音のごくごく短い表現。読者の皆さんの力作である、こんなに長い文章を読み込んで評価するなど自分には荷が重い、と実は思ってしまいました。
さらに申し訳ないことに、私はこうした自分語りの手記を読むのが気恥ずかしくて苦手です。私がなぜ俳句という表現を選んだかといえば、自分を赤裸々に語る必要がないほど短いから。詩を書きたいと思ったこともあるのですが、詩でさえ私には長すぎて、人間の内面がストレートに表れてしまうのがどうにも恥ずかしいのです。
俳句は自分の本当に言いたいことを、季語に思いを託しながら、17音の短い言葉の連なりで表現します。そうして生まれた句をどう解釈するかは、読み手の自由。
たとえば句会では、最初は作者の名前を伏せたままで鑑賞しますから、性別も年齢もわかりません。どんな読み方をされても、それがまったくの誤解でも、作者は「なるほど、そういう読み方もあるんですね」と受け止める。「そうじゃありません、実はこういう意味で」とくどくど言い訳するのは、野暮の極みとされます。
どう解釈されてもいいと思うからこそ、作者は気がねなく本音を吐き出せるんですね。読み手によってさまざまに分かれる解釈に、ある意味で守られながら自分の表現を磨いていくのが俳句というもの。
そういう世界で長く生きてきた人間ですから、皆さんの作品への選評も、視点がちょっとずれていたり、多少辛口と感じることもあるかもしれません。どうかご勘弁くださいね。