「書いて自分の感情を吐き出せば、胸のドロドロが少しは下へ沈むはずです」

書いて自分を客観視。それが介護の慰めに?

表現することで、人は救われる。それを実感できたのが、逢坂啓子さんの「認知症の遠距離介護、12年。『尊厳死したい』という母の願い空しく」でした。

大切なお母さんが認知症になって、東京と広島を往復しながらの遠距離介護。それはもう、本当に悲しくてつらくて、しんどい12年間だったと思います。そうした負の感情を、誰にも伝えられず胸のなかに溜め込んでいると、少しずつドロドロと濁ってきて、いずれは喉から口元までせりあがってくるものです。次にはそれが攻撃的な言葉や態度になって、誰かにぶつけてしまうことにもなりかねない。

親しい人に聞いてもらうのも良いかもしれませんが、何度も続くと「またか」という反応をされて傷つくこともあるでしょう。だから、書くんです。書いて自分の感情を吐き出せば、胸のドロドロが少しは下へ沈むはずです。

ただ自分で自分の傷を舐めるみたいに「私はこんなに悲しい女なんです」と延々と不幸話をするだけでは、人には伝わらないし、書いている本人も負の感情のスパイラルから抜け出せません。

ある程度の工夫や技術を使って自分の気持ちを伝えたいという心積もりで書いていくと、胸に溜まったドロドロの上に透き通った「上澄み」がゆっくりゆっくり生まれ始めます。その上澄みこそが表現であり、作品なのです。

逢坂さんの場合、「平成19年5月、『アルツハイマー型認知症』の診断を受ける。母76歳」というように、数字を使って状況の変化を伝える手腕が巧みですね。「公証役場を訪ね、『尊厳死宣言公正証書』を作成」といったお役所言葉の生かし方もうまいと思いました。

俳句もそこにある物や情景を写真のように切り取って、その断片に自分の心情を託すということをします。文字量が少ないぶん、日付や地名、特殊な用語などはしっかりとメモして作品に生かす。つまり、取材と観察なんですよ。

この作品でも、数字や固有名詞を使って淡々と冷静に綴っているようでいて、その裏から作者の深い悲しみが伝わってきました。

もう一点、逢坂さんの作品に美しい輝きを与えているのが、自分のなかの醜い感情にもしっかりと向き合っていること。俳句もただ美しいだけの句は印象に残りません。

冒頭にある、「心のどこかで弔辞を一日も早く読み上げたいと願い、日々過ごしてきた」という一文には胸を突かれました。「何と惨たらしい娘と思われるかもしれない」と危惧しながら、勇気を持って書いてくれたからこそ、この一篇は人の心に届くノンフィクションとして、評価に値するものになったのです。

また介護を経験した読者からは、「しんどいのは私だけじゃなかった」「よく頑張りましたね」といった共感も得られるでしょう。そうして書き手と読み手の思いが通じたとき、心の上澄みはさらに金色の輝きを放ち始めます。逢坂さん、よくここまでお書きになりました。