「工場」の記号に統合
以上が金属工場であるが、後の二つは窯業関連である。「磚瓦製造窯」の方は丸い輪郭の窯(かま)にアーチ状の入り口を描いたものだが、「明治33年図式」からカナダ極北の先住民のイグルー(雪の家)に似た記号となり、呼び名も「磚瓦製造窯及陶磁器製造窯」となり、細かい話だが「明治42年図式」からは製造窯を製造場に改めている。
磚の字は瓦を指し、現代語では煉瓦のように固めた茶の「磚茶(たんちゃ)」に用いられる程度だが、記号の対象は瓦や煉瓦などを焼く窯である。
煉瓦造りの建造物は明治に入ってから急増、これを受け実業家の渋沢栄一らが郷里近くの上敷免(じょうしきめん)村(現埼玉県深谷市)に設立したのが、日本初の機械式煉瓦工場となる日本煉瓦製造である。
東京駅や現法務省などの現存する赤煉瓦建物の煉瓦供給を担っていたが、この工場に向けて深谷駅から引き込まれた線路も日本初の専用鉄道だ。
次の「石灰製造所」は当初「石灰炉」で、後に「石灰製造窯」と呼称が変化しているが、上の開いた丸い袋形の記号である。
東京の青梅(おうめ)街道が江戸城の大量の漆喰需要をまかなうべく青梅付近の石灰を運ぶために整備されたのは知られているが、石灰は肥料としても広く用いられた。
記号は江戸後期から用いられてきた小規模な石灰窯(いしばいがま)をイメージしたように見えるが、「坩堝(るつぼ)の形を図案化」したとされている。
戦前までは石灰石の産地近くに小規模な窯が多く見られたが、次第に近代的な大規模工場となるため、地形図で区別する意義が失われたのだろう。