衝撃的な新説

その流れを決定付けたのは、美術史家の米倉迪夫氏である。

その著書『源頼朝像 沈黙の肖像画』(平凡社 1995年)で米倉氏は「源頼朝像は頼朝を描いたものではなく、室町幕府をつくった足利尊氏の弟・直義(ただよし)を描いたものである」という衝撃的な新説を発表したのだ。

(写真提供:Photo AC)

じつはそれ以前から肖像の冠や簪(かんざし)の形から、鎌倉後期から南北朝時代に作製されたとする説があったが、なぜか真剣に討議されなかった。

だが米倉氏が自説を発表すると、美術史学会や歴史学会は大きく反応し、反論や賛同が相次ぎ、大論争に発展した。

米倉氏は、頼朝像の眼や口、耳など顔のパーツの描き方に着目し、無等周位(むとうしゅうい)が描いた夢窓疎石(むそうそせき)像(妙智院蔵)との類似点を指摘、疎石像が14世紀の絵画であることから源頼朝像も同じころの作品だと断じたのである。

そのうえで米倉氏は、1345年の「足利直義願文(がんもん)」(京都御所の東山御文庫所蔵)に、神護寺に「征夷将軍(足利尊氏)ならびに予(足利直義)の影像を図き、以(もっ)てこれを安置す」とあり、そのとき奉納した直義の肖像こそ、これまで頼朝像とされてきたものと論じたのである。

確かに頼朝像の画中には、像主(モデルの人物)の名は記載されておらず、当人を描いたことを確実に証明できない。

なのに頼朝の肖像とされてきたのは、『神護寺略記』(14世紀半ばの書)に「神護寺に藤原隆信が描いた頼朝や平重盛、藤原光能(みつよし)の肖像が存在する」と記された箇所があり、江戸時代になって、頼朝像を含む三つの肖像画がそれらに該当すると考えられるようになったからである。