温州みかんを世界に紹介したのはかのシーボルト

なお、温州みかんの存在をはじめて海外に紹介したのは、長崎で鳴滝塾を開いたあのシーボルト。1835年に発表した『日本植物誌』のなかで、Nagashima-mikanと記している。

温州みかんの名前が一般的になったのは、幕末から明治にかけてである。温州という名が使われたのは、1848年(嘉永元年)に本草学者の岡村尚謙が『桂園橘譜(けいえんきっぷ)』のなかで、「温州橘は俗に種なし蜜柑といふ」、と記したのが文献上は最古だ。

『日本の果物はすごい-戦国から現代、世を動かした魅惑の味わい』(著:竹下大学/中央公論新社)

温州みかんの苗木がはじめてアメリカに持ち込まれたのは、1876年(明治9年)であった。日本茶を最初にアメリカに輸出した貿易商ジョージ・R・ホールによってであり、彼がUnshiuと名づけた。

続く1878年には、幕末から明治初頭にかけて駐日米国公使を務めたロバート・ヴァン・ヴァルケンバーグが、苗木をフロリダの自宅に送っている。日本で過ごした際に妻アンナが温州みかんをとても気に入っていたためだ。

Satsumaと名づけたのはアンナの発案だったという。UnshiuよりもSatsumaのほうが定着し、これ以降大量の苗木が鹿児島県からアメリカに輸出されるようになった。

2016年(平成28年)に国立研究開発法人農業・食品産業技術総合研究機構(農研機構)は、ゲノム解析によって、温州みかんは紀州みかんにクネンボが交配されてできたと推定されると報告した。

八代から長島までは、海路で約55km。小みかんが長島に伝わったのは早かったと考えられる。

温州みかんは中国からやってきた種子ではなく、長島で小みかんとクネンボが自然交雑した種子起源であった可能性が高まった。