処刑直前に石田三成が発した名言
豊臣秀頼からのし柿を与えられ大感激した毛利輝元であったが、西軍総大将として関ヶ原の合戦に参戦すべく大坂城に入ったにもかかわらず、出陣することはなかった。石田三成の参戦要請にも応じなかったのである。理由は秀頼を守るためだったとも言われる。
石田三成も干柿好きで知られる人物だ。『茗話記(めいわき)』と『明良洪範(めいりょうこうはん)』に次のような干柿のエピソードを残している。
捕らえられた三成は、二条城の北側にあった京都所司代に監禁された。1600年(慶長5年)9月28日に市中引き回し、10月1日に京都六条河原で処刑されて首は三条河原に晒されている。
この処刑直前に、喉の渇きを覚えた光成が白湯を求めたときの話である。
警固の者が白湯は手に入れづらいので代わりに持っていた干柿を勧めたところ、三成はカキは痰の毒だからと断った。これを聞いた警固の者は、もうすぐ首をはねられる者がそんなことを気にするなどと大笑い。
当の三成はというと、大義を思う者は首をはねられる瞬間まで命を大切にして、何としてでも本意を達しようと思うものだ、と彼に言い返したのだそうだ。
※本稿は、『日本の果物はすごい-戦国から現代、世を動かした魅惑の味わい』(中央公論新社)の一部を再編集したものです。
『日本の果物はすごい-戦国から現代、世を動かした魅惑の味わい』(著:竹下大学/中央公論新社)
日本の歴史を語るのに果物は欠かせない。
徳川家康はなぜ関ヶ原の戦い直前に柿と桃に願をかけたのか。太平洋戦争中、軍需物資として密かに大量生産されたのはどんなブドウだったか。
日本社会・経済発展の知られざる裏側を「果物×歴史」で多種多様に読み解く、「もうひとつの日本史」。