「地形図」にも船の記号が
明治末の日本橋蛎殻町付近の地形図(図1)を見ると、箱崎川の周辺には船の形をした記号で賑やかだ。
土佐藩主の山内容堂(やまのうちようどう)が架けた土州橋の右手に見える煙突のある船の記号は「停舩所(ていせんじょ)」を意味するが、そのすぐ右手の煙突から煙が出ている船は「汽舩による通舩」の記号で、銚子行きの通運丸の航路はこれに該当するのだろう。
橋の左側に見える船に楫(かじ)を付けた記号は「舟楫(しゅうしゅう)による通舩」で、破線が左へ向かっていることから、日本橋川へ向かっているようだ。船の側面形に楫が添えられているので、 艪(ろ)で漕ぐ和船だろうか。
女橋の西側に見える池のある庭園(現蛎殻町公園)は京都の豪商杉村甚兵衛邸で、その前に見える船の記号は「人馬渡(じんばわたし)」の中洲渡。
航路が破線で示されているように隅田川東岸の清住町(現江東区清澄)との間を結んでいた。船着場のすぐ近くには浅野セメントの大きな工場が見える(図の右欄外)。
この「人馬渡」の記号は船を上から見た形に横線が一本入っているが、もうひとつ存在した「人渡(ひとわたし)」には線がない。
こちらは葛飾柴又と江戸川の対岸を結ぶ「矢切の渡し」を思い浮かべればいいだろうか。これも艪で漕ぐ舟だったと思われる。
戦前の図式ではわざわざ「汽舩渡」という記号も定めているから、それ以外は人力による渡船だったに違いない。
「人馬渡」の用語は戦後の「昭和30年図式」から「車両渡」に変わる。当然ながらモータリゼーションが進んで馬の活動範囲は狭くなり、お役目が自動車に取って代わられたことの反映だ。