武田家の内部で生まれた軋轢
実際、駿河湾を手に入れる策は計画的に進められていたようで、伊勢国から人材を呼び寄せています。
というのも、武田は水軍、今でいえば海軍を持ったことがない。そのため船の扱いがわからないので、伊勢で船の扱いに長じた武士をヘッドハンティングした。
それも傭兵ではなく、きちんと領地をあげるから武田に骨を埋めてくれ、というかたちで人材を招き、武田水軍まで創設しています。そこまでやっていますから、よほど信玄は海が欲しかったのでしょう。
ちなみにその武田水軍は、後に徳川家康に仕えて徳川水軍となり、旗本として存続していくことになります。
しかし義信の判断としては、海はあきらめても三国同盟を守っていったほうがお互いのためで、よりメリットが大きいと考えていたのだろうと思います。こうして父と後継者は対立し、時間はかかりましたが、最終的に信玄は義信に自害を命じることになります。
もちろん、義信はただの個人ではありません。家来の中には義信という人間を支持し、彼についていたグループもいた。また、義信の「三国同盟を守ろう」という方針を支持していた人たちもいたはずです。
「義信派」の有名な武将としては飯富虎昌がいました。この人は義信の守役で、「武田の二十四将」としてすぐ名前が出てくる山県昌景の実兄です。信玄が信濃の村上と戦ったときに戦死した板垣信方と甘利虎泰、そして飯富虎昌の3人が武田の重臣の代表だった時代があるのですが、虎昌が義信路線に賛成したために、信玄は彼も誅殺してしまいました。
義信を自害させたことは、武田家の内部ではそれほどの軋轢を生んだ。だから信玄は義信自害の後、家臣たちに「間違いなく武田信玄に忠節を誓います」という誓いの言葉を書かせて集めています。その誓詞が今の信州、上田市の生島足島神社にたくさん残っている。