母・江見絹子さんと荻野さん。自宅のアトリエにて2012年頃に撮影された一枚。江見さんの最晩年の作品『3.11 希望』の前で(写真提供:荻野さん)

おまけに設計をお願いしたのが、新国立競技場の設計を担当した隈研吾先生。お引き受けいただけたのは嬉しいのですが、私が理解できる範囲のモノの値段を超えていますので、まだ怖くて見積もりを出してもらっていません。今、一歩一歩進めているところですが、もう、お金のことでちまちま悩むのは諦めました。

母は、父から生活費をほとんどもらわずに、自分の絵で得たお金をすべて家につぎ込んだわけです。今度は私が働いたお金をつぎ込む番かな、と。私も65歳で、定年を迎えます。この歳でいったいいくら借金できるのかわかりませんが、退職金もすべて使うつもりです。

お金に関して堅実な人なら、むしろ実家を売って自分の老後資金として確保するのでしょう。でも、私は逆。ゼロからの出発でいいと思っています。

まぁ、アリとキリギリスで言えば、母も私もキリギリスなのでしょうね。でも、母も私も、形のないものを信じる気持ちがあります。母の場合はそれが絵であり、芸術でしたし、私の場合は書く仕事や学問です。私はお金にならない豊かな世界があることを知っているので、お金に振り回されない暮らしが可能なんだろうなと思っています。

面白いことに、人生にとって大事なものはお金ではないと思っていると、同じような人が集まるんですね。いわば、キリギリス人脈。絵の修復をする研究所の人たちも、皆さん浮世離れしていますし、隈先生だって、普通だったらそんな仕事とも言えないような小さな仕事を、面白がってくださった。

とはいえ、キリギリスは最後、野垂れ死にする可能性もあります。でもそれも、悪くないと思うのです。

たとえば作家の永井荷風。若い頃はアメリカやフランスに行って見聞を広げ、その後は世間に背を向けて自分の道を歩き、一人暮らしをしてひっそり一人で死んでいった。世間ではそれを「孤独死」と言うのかもしれませんが、私は、けっこういい亡くなり方だなと思うのです。