撮影:本社写真部
作家の荻野アンナさんは、父母とパートナーを見送り、自身の病も経て、どのように人生後半を過ごそうと考えているのでしょう(構成=篠藤ゆり 撮影=本社写真部)

ないならないでかまわない

私はお金に関して、かなり考え方がいい加減でして。そもそも私には、「人生にとってお金は大切なもの」という発想がありません。お金があったらあったで使うし、ないならないでかまわない、という気持ちもあります。そういう考え方になったのは、ひとつには家庭環境もあるかもしれません。

画家だった母の江見絹子は兵庫県出身で、お嬢さん育ち。お金に困ることなく育ち、抽象画の絵描きになりました。芸術家ですから浮世離れしており、あまり現実的な発想をしません。ひとことでいうと、お金に執着がないのです。

父はフランス系アメリカ人の船乗りで、家に毎月ちゃんとお給料を入れていませんでした。アメリカの実家にはけっこう送っていたようですが、母はそのことで騒ぐような人ではなかったのです。

そもそも母は、父の性格に問題があるのはわかっていたのに、顔に惹かれて結婚したと言うんですから話にならない(笑)。確かに若い頃の父の写真を見ると、なかなかのイケメンです。

新婚当初は母の絵がまだそれほど売れていなかったので、父が航海に出ている間、何ヵ月もお金がなかった時期もあります。そこで母は生まれて初めて質屋に行き、それで得たお金で干しうどんを大量に買い、毎日それを茹でて油をかけて食べていたそうです。

そんな生活をずっと続けていたところ、栄養失調で歯茎が後退してしまいました。それでも、母はいわゆる“売り絵”は一切描きませんでした。本当に自分が描きたい絵のみを追求したのです。

絵が売れるようになると、母は収入をすべて家の普請につぎ込みました。最初に家を建てたのが昭和31年、その後、昭和45年に建て増しをし、自分の好みの空間を作り上げたのです。そんな母の姿を見ていたからか、私は小さい頃、お金というものがよくわかりませんでした。

確か小学校1年生の頃だったと思います。学校で、「貯金」というものを教えられました。私は貯金箱にお金を入れるため、母のお財布から500円札や1000円札を取り出してそこらへんに放り出し、10円玉をありがたそうに貯金箱に入れていました。お金のことをまったく教わらずに育ったので、お金の価値について理解できていなかったんです。

おまけに私は、30歳まで働いたことがありませんでした。大学の時に1年間フランスに留学し、帰ってきて大学院に進学。博士課程の途中で給費留学して博士論文を書き、その間ずっと学生でした。帰国して、今も勤務している慶應義塾大学に勤めるようになり、30歳で初めてお給料をいただいたのです。

現実社会をまったく知らないままきたので、夏休みに数万円という給与明細をもらった時、てっきり夏休みだから月給は出ないのだと思っていました。実は、春闘で賃上げされた分のプラスの差額だったんですね。