幼い頃のひで子さんと「弟の思い出」

ひで子さんが幼い弟のことでよく覚えているのは、1941(昭和16)年に雄踏幼稚園で開かれた学芸会だ。「とうちゃんだい」というタイトルで、園児が父親の格好をして踊るという出し物で、幼い巖さんが抜擢されて舞台に立った。

大人の服装にぶかぶかの革靴を履き、ステッキを持って舞台を歩き回った。その滑稽で真剣な姿が可愛らしく、家族や父兄たちは大笑いになった。

「あの時の巖は本当に可愛かったね」と、筆者の取材中もひで子さんは奥の部屋でテレビを見る巖さんを見やりながら目を細めるのだ。

釈放後、初めて記者会見に臨んだ袴田巌さんと姉のひで子さん(本書より:著者撮影)

しかし、その年の12月8日、帝国海軍はハワイ真珠湾の米艦隊を急襲、日本は一挙に戦時体制に突入する。

勉強もスポーツも万能でクラスメイトから一目置かれたひで子さんは、よく学級委員長に選ばれていた。

ある時、浜松の甥が来てひで子さんが子供時代の通信簿や役所の辞令など持ってきた。通知表は「オール優」だ。ひで子さんは今も小学校時代の通知表を持っている。「母が自慢したくて取っていたみたい」と打ち明けた。

負けん気も強かった。「何かやられたら黙っちゃいない。6年生のクラス替えの直後、隣の女の子が授業中につねってきたので、その子がやめるまでつねり返しましたよ。

私はそんな性格でしたが、上の兄の實がものすごくおとなしいもので、周囲からはよく『實兄さんとデコちゃんの性格が逆ならよかったのに』なんて言われていましたよ」と笑う。

家族愛に包まれ、すくすくと育つ姉と弟。しかし、戦局は悪化する。