澤田さんががんだと知ったのは昨年の6月。病をおしてコンサート会場に来てくれた澤田さんは、痩せたのを私に悟られないように服の下につめものを入れて、元気なふりをしていたそうです。それからわずか1ヵ月後、7月に亡くなったと聞いてからは私、体も頭もちょっとおかしくなってしまって……。

喪失感が大きくて、誰に何を言われてもボーッとしていたというか。パッと隣を見ると、いつもそばにいてくれた仕事のパートナーがいなくなって、私はこれからどうやっていけばいいのか、と。そのときですね、秋には私も60歳になるんだ、果たしてこのままでいいのだろうかと、真剣に考え始めたのは。

10月に還暦を迎えて人生の残された時間を具体的に考え始めたとき、もう少し穏やかな時間の中で、芸能活動以外のことに時間を使って人生を充実させたいと思ったんです。

自分の過去を振り返ってみると、いつも私は誰かのために歌を歌ってきたんですよね。そういう意味では、私にとって歌=仕事だった。デビューしてからは両親に少しでもいい生活をさせたいという思いで頑張った。19年の結婚生活中に3人の子どもに恵まれたものの、離婚後はひとりで家族を養わなければなりませんでした。子どもたちの学費のため、生活のため、私には歌を歌う道しかなかったのです。

だけど、子どもたちも巣立ち、少し私の肩の荷もおりました。今まで応援してくださったファンの皆さまには本当に私の勝手で申し訳ないけれど、もうそろそろ、仕事というレールから外れ、自分で決断して生きていきたい、と気持ちが切り替わってしまったんです。それで澤田さんの死から数ヵ月後、事務所に「年内で引退したい」と伝えました。

 

孫ができても面倒はみません

これまでの歌手生活、本当に山あり谷ありでした。なかでも再デビューしたときが一番つらかった。20年のブランクと一言で言いますけど、歌手にとってそれは長い期間で、最初はまともに声が出なかったんです。周りからは「昔の森昌子じゃない」とも言われました。悔しかったし、つらかったけれど、ここで踏ん張らないと、私が稼がないと、家族を養っていけない。まず昔のような声ではないことを認めたうえで、毎日ヴォイストレーニングに励むしかなかったのです。

そうした日々を乗り越えられたのは、恩人の澤田さんと、やはり母の存在が大きかった。一人っ子だったせいか、私と母との関係は非常に密なものです。デビュー当時は、学校が終わるとテレビ局に直行しなくてはならない私のために、私の好物ばかりが入ったお弁当を、車の中に必ず用意してくれていました。和裁や洋裁も得意だったので、デビュー当時の振り袖などの衣装は、すべて母の手作りです。