「過剰なまでに心配性な母は、私が高校生になっても、決して一人で留守番をさせませんでした」(撮影:玉置順子)
2017年に亡くなった母・野際陽子さんに、30年もの間甘えることを許されなかったと言う真瀬樹里さん。今振り返る母の姿と、胸に抱く夢とは(構成=篠藤ゆり 撮影=玉置順子)

泣きながら土下座して謝った

昨年6月、母・野際陽子の七回忌を行いました。母がいない生活に慣れはしましたが、恋しさが薄れたかと言われたら、まったくそんなことはありません。亡くなる直前まで一緒に暮らしていたので、よけいに寂しさを感じるのかもしれないですね。

母は同じマンション内に2部屋持っており、1室は父(故・千葉真一さん)が使っていました。私が19歳の時に離婚して父がアメリカに行くことになり、父からその部屋を「お前が使ったら」と提案されて、それからはそれぞれ一人暮らし。

とはいえ、母の言いつけで食事は一緒にとっていたので、ずっと同居している感覚でした。

母が私を産んだのは38歳と11ヵ月の時。当時は、芸能界初産最高齢と言われたそうです。そのせいもあってか、子どもに対して過保護・過干渉。母の口癖は、「樹里ちゃんはママの宝物」でした。

過剰なまでに心配性な母は、私が高校生になっても、決して一人で留守番をさせませんでした。両親とも出かける時は、お手伝いさんや自分のマネージャーにお願いして。

私は幼稚園から高校までカトリック系の女子校に通っていましたが、アメリカンスクールや芸能活動を許可している学校に転校したいと言っても、「悪い友達ができるかもしれない」と許してくれませんでした。