恋をしない=こだわりが強い変りものという偏見
『恋なんて、本気でやってどうするの?』の主人公は、母親が恋愛体質で、男性に依存しなければ生きられない人だった。そんな母親に振り回されて育った主人公は、その苦い幼少期の体験から、母親を反面教師として、男性に頼らず、恋をせずに生きていくと心に誓うようになった。本来恋愛するはずが、母親のせいでできなくなった、という筋書きなのだ。恋愛しない人は、なにか不幸な理由があってそうなってしまったに違いない、だから運命の出会いがあれば傷が癒えて恋愛できるようになる。
そんな風に、恋愛しない人になにかトラウマティックな理由があると決めつけるのは、恋をするマジョリティの視点でしかない。
若草物語では、結婚したくないことに説明を求められることに主人公が疑問を呈すシーンがあるのに、なぜ恋愛をしないことを恋愛体質の母親に振り回されたというトラウマティックなものと意味づけしてしまうのだろう。マイノリティが説明が求められることに疑問を持つならば、恋愛しないことにも理由はない、というのを貫いてほしかった。これでは、恋愛しない人はなにかトラウマティックなことがあって恋愛にネガティブになっているというスティグマを補強するだけだ。
恋愛しないことに、理由はいらないのだ。恋愛至上主義に一石を投じるはずのドラマが、恋愛する側(マジョリティ)の視点から見る恋をしない人の描き方を踏襲しているのがなんとも残念だ。
また、もう一つ気になるのは、恋しない人が、こだわりが強かったり、偏屈な人、みたいに描かれることだ。アロマンティックアセクシャルの男女の同居を描く『恋せぬふたり』では、恋をしない主人公が、偏屈で意固地に描かれる場面があった。『恋なんて、本気でやってどうするの?』も『若草物語』も、恋をしない人が、変わり者、意固地というニュアンスが、オーバーに描かれているのが引っかかる。恋する側はこだわりがあるとは思われないのに、恋をしないだけで、こだわりが強いというイメージを持たれやすいのは、やはり恋をする人がマジョリティで、マジョリティの常識から外れたらこだわりが強い変りもの、という偏見を持たれるからだろう。
恋しない人が、トラウマティックに描かれることもなく、恋をしないという意思が恋に溺れる前振りに使われることなく、意固地に描かれることもない。ただそこに存在する。そんな風に描かれる作品が増えてくれたらいいなと思う。