甘い憂鬱

シミのことを考えると、亡き母のことを思い出す。母はほとんど化粧をしない人だった。紫外線対策も然り。大中小とバリエーションに富んだシミが頬を中心に散らばっていたし、手の甲にも、私のものよりずっと大きなシミがあった。

ある日、自由闊達を絵にかいたような母が、鏡台の前で珍しく嘆いていた。「こんなにシミだらけになっちゃった。昔は綺麗な肌だったのに」。

小さな私は急に悲しくなって、母の腰にすがり「どんなにたくさんシミがあってもお母さんは綺麗だよ。大好きだよ」と懸命に伝えた。心の底からそう思った。母の美しさは、シミの数なんかでは決まらない。

娘の狼狽を見て、母は「ありがとう。優しい子だね」と微笑み、抱きしめ返してくれた。親としての体裁をなすために、母は「あるべき母親」として振舞ってくれたわけだ。

それとこれとは話が別だと、いまの私ならわかる。人生におおむね満足しながら、シミが増えたことを憂鬱に思う。満足と不足は同時に成立するのだ。私がもう少し大人だったら、母の嘆きを否定せず、穏やかに肯定し、一緒に嘆いてあげられたのに。

母がそうだったように、私も毎日を一生懸命に生きている。なにか褒美がもらえたっていいはずだが、現実には、シミがご褒美スタンプのように増えていくだけだ。

「それでも、私は美しい」と胸を張るのが、時流に乗った態度だろう。自己肯定が持つパワーは計り知れない。けれど、シミはシミ。シミぐらいじゃ私の価値は下がらないが、ないに越したことはない。

頬、首ときて、最後に手の甲にシミ消しクリームを塗りながら、ここのシミだけは残ってもいいかもしれないと思った。父と違って母と私はそれほど似ていなかったので、いまさら容姿の共通点が増えたようで嬉しいのだ。母の娘だという証が、私の手の甲にある。

没後二十余年にして突如現れた母娘の相似に、私は甘い憂鬱を覚えている。だが、これ以上増えてほしいとは思わない。それとこれとは話が別だ。


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