老母とのリレー
昭和一桁、地方都市に生まれた母。あまり戦争の話をすることがなかった彼女が、女学校時代の体験をふと話してくれたことがあった。
その日、母は女性教師から学校帰りに荷物を運ぶ手伝いを頼まれたそうだ。汽車通勤で、一人では荷物を持てないので一緒に運んでほしいとのこと。お世話になっている先生の頼みとあらばと、ふたつ返事で承諾した。
持たされたのが闇米だと判明したのは汽車に乗る寸前だったそうだ。その頃、女学生への検査は厳しくなく、白羽の矢が立ったのだと理解した。乗っている時間がどれだけ長く、生きた心地がしなかったことか。ようやく着いた駅で、帰りの汽車賃を手渡した教師は、人混みに紛れて帰って行った。
生きるためにその教師も必死だったと理解できる。とはいえ年端もいかぬ少女に犯罪の片棒を担がせるとはなんと恐ろしいことか。戦争は人格までも変えてしまうのだ。
戦後母は、純朴な教師と職場恋愛の末、結婚。妊娠を機に退職した。母の口ぐせは、「先生と呼ばれるほどの馬鹿でなし」。「『先生』と呼ばれる立場だからといって、その人が本当に人格者かは定かでない」という意味だそうで、いつも身内贔びい屓きを戒めていた。
父はすでに亡くなり、母は特別養護老人ホームで暮らしている。そんな彼女が楽しみにしているのが、入居者の皆さんとのお食事、親族や家族との面会、電話や職員の方とのお喋りだ。余暇にコーラスや俳句を楽しんだり、針仕事をしたりするのが好きだった。
ところが大腿骨を骨折してしまい、車椅子生活に。さまざまな趣味も億劫になってしまったようだが、今でも続いているのが、『婦人公論』を読むことである。
発売されたら、まず私が読み、気になった箇所や母と共有したい文章に線を引いて、母に渡す。近頃耳が遠くなってきたが、目は健在。両目とも白内障の手術をしたので、視力は私よりもいいくらいである。こういうとき、雑誌を共通の趣味にできるとありがたいのだ。母が元気な限り、〈『婦人公論』リレー〉を続けていこうと思う。