無罪判決後の会見にて

「主夫」の貢献

角替さんは、高校時代はソフトボールでインターハイに出場したアスリート。学業は苦手だった。しかし、テレビで見たNASA(米航空宇宙局)の航空開発に憧れ英語を猛勉強、米国のアイオワ州立大学航空工学部に編入した。卒業後は縁あって米国の液晶ガラス会社に就職。日本支部への帰国出張で知り合った同僚と結婚した。

だが働くうちに労働者間の格差を目の当たりにし、労働問題に関心を持ち始める。弁護士として社会正義を追い求めようと一念発起、日本に異動するタイミングで司法試験を目指すことにしたのだ。

2年制の予備校に通い始めるが、母親が「通るはずないでしょ」と笑った通り1度目は不合格。だが一次試験は40番の好成績と知り、「行けるかも」。2度目の挑戦で合格をつかみ取った。「ガラス会社の年収は31歳で1000万円近くあったけれど、決心は変わりませんでした」

合格発表を待つ間に興味本位で参加した袴田事件の集会で現状に憤りを覚え、その場で夫と一緒に再審請求の嘆願書にサイン。それが、弁護団に入るきっかけとなった。

「弁護士になれたのは夫の支えが大きい。私は脇目もふらず勉強し、彼は掃除、洗濯、皿洗い……と、全部やってくれました」。司法修習生の時に長女を出産したが、「同期と比べて年齢が高いので、育児で修習を遅らせたくない」と夫に相談した。

すると彼は、「子どもの面倒は僕が見るよ」と会社を辞め、「主夫」に徹することを決断。「袴田事件は持ち出しばかりで稼げないんだけど」と感謝する。2人の娘は現在、中学生と高校生だそうだ。

再審途中のある日の記者会見でのこと。角替さんは、検察側の鑑定人たちが自分たちでは何もせず弁護側の鑑定人の実験結果を否定するのを、「料理をしないくせに妻の出した食事にケチをつけてくる夫のようなもの」と巧みに揶揄した。当時まだ彼女の夫の支えを知らなかった筆者は愚問を発してしまった。「料理をしない夫って角替さんの夫のことですか?」

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長きにわたって、諦めることなく地道な努力を重ねてきた田中さんと角替さん。巖さん、ひで子さんはじめ、本当に多くの人が思いをつなげてきた。彼女らの存在なくして、袴田事件の無罪判決はなかっただろう。