「笑点」の司会になるまで

 子ども時分は、そういう職業の家だから、とても孤独だったらしいんです。そんな中、ラジオで盛んに落語をやっていたんで、それで好きになったらしいんです。そして(五代目)古今亭今輔師匠のところに弟子入りしたんです。その頃、冨士子さんという方と結婚して。娘時代にもともとご近所に住んでいて、その立ち振る舞いを歌丸さんがずっと覗いていたんです。

― 歌丸師匠は片思いのお相手とご結婚されたんですね。

崎陽軒の「桂歌丸さんの愛した炒飯弁当2024」のパッケージの絵<『木久扇の昭和芸能史』より>

 そう。それで「ぼくは後ろ姿を見ると元気になるんだ」って言って、当時の口説き文句があるんでしょうね。冨士子さんは今、93歳でご健在なんですけどお元気で、歌丸さんより年上の方です。でも当時、結婚しても食えないんで、冨士子さんと二人でアルバイトで化粧品のセールスをはじめたんです。一緒に売りに行くわけじゃなくて、別々でね。「このクリームをつけるとハリがでます」って言って売っても、歌丸さんはその頃から痩せてて、頬がこけてる人がそう言って売ってもねえ(笑)。

― 説得力ゼロです(笑)。それが昭和30年代?

 そうです。それから落語ブームになるんですが、そのきっかけは新宿末廣亭で「末廣演芸会」っていうテレビ番組(テレビ朝日、1975〜1981)がはじまり、その中で「珍芸シリーズ」っていうのがはじまったんです。桂米丸(よねまる)師匠が司会で月の家圓鏡(つきのやえんきょう)(八代目橘家圓蔵<たちばなやえんぞう>)さんとか、三笑亭夢楽(さんしょうていむらく)さんとか、笑点の前の世代の人たちが出ていて、その視聴率がよくて落語自体が盛り上がってきたんです。

でもその中に入れないんで、横目で見ながら頑張っていたんですけど、自分と同世代の(立川)談志さんが「笑点」を作ってくれて、メンバーにしてくれたんですね。その時に、メンバー選びのテストがあったんです。そこで歌丸さんは、本物の盛り蕎麦をとって、堂々とそれを食べて、何にも言わないで「お粗末様」とだけ言って下がっていったんですね。それが面白いっていうんでメンバーになれたんです。それで「金曜夜席」っていうのがスタートして、そこで歌丸さんが小言幸兵衛の役で売り出して、そのキャラがハマったんですね。

― それでのちに「笑点」の司会者になられるわけですね。

 ええ。ずいぶん仲間内との付き合いがあって。例えばこん平さんがお酒でしょっちゅうしくじるんですね。三平師匠の海老名家へ行って騒いだり、おかみさんのことをバカヤローって言ったりして「あんた、クビよ。こないでよ」って言われると、こん平さんが歌丸さんに泣きついて、いつも謝りに行っていたんです。

― そうなんですか。面倒見が良いんですね。