祖父を手本にして、風紀の取り締まりを行った定信
町人の贅沢、銭湯の男女混浴や女髪結(おんなかみゆい/売春を伴いました)など、さまざまな江戸の風俗・遊びを風紀を乱すとして禁止しました。
出版界も目をつけられ、厳しい統制を受けることになります。本や浮世絵のテーマや中身、装丁、色づかいまで規制されたのです。
こうして、蔦重にとって生涯最大の逆風が吹きはじめました。
蔦重は、そうした統制に対して、黄表紙で定信の政策を茶化すなど、抵抗の姿勢を示します。その心意気は一時的に世間の喝采を受けますが、その一方、幕府をさらに刺激しました。
改革開始から4年後の1791年、幕府は、蔦重が手がけた山東京伝の本を摘発、京伝を手鎖(てぐさり)50日の刑に処したうえ、蔦重を身上半減に処し、財産の半分を没収しました。
この弾圧によって、蔦重はいったん事業を縮小せざるをえなくなりますが、それでへこたれることはありませんでした。