歌麿の美人画が大ヒット
そして、弾圧を受けてから3年後の1794年、蔦重は大勝負に出ます。
それまで手がけたことのなかった「役者絵」に取り組んだのです。そのさい、起用した絵師が、東洲斎写楽でした。
写楽の役者絵シリーズの刊行は、蔦重にとって、最後といってもいい大博打でした。
しかし、蔦重は莫大なコストをかけたものの、そのシリーズがヒットすることはありませんでした。
それから3年後の1797年(寛政9)、蔦重は息を引き取りました。享年48。死因は、江戸煩いと呼ばれた脚気だったと伝わります。
蔦重が創業した地本問屋「耕書堂」は、番頭が跡を継いで、4代目の1861年まで、店は続きました。
しかし、その後、初代蔦重の時代のような輝きを取り戻すことはありませんでした。