蔦屋の細見

ところがそこは「生き馬の目を抜く」と評された江戸のことだけあって、機を見るに敏な蔦屋重三郎、小泉忠五郎らは、鱗形屋に替わって早速彼らの手で吉原細見を出版してしまう。

この時の蔦屋の細見は、従来の小型本(15.7×11.0センチ)を中型本(19.0×13.0センチ)に変えるなど、いくつかの新しい形式を採用しているという。細見版元としてのスタートをきった重三郎の、新鮮な意欲の表われであろうか。

(写真提供:Photo AC)

こうして翌安永5年春からは、吉原細見は蔦屋版と鱗形屋版の2種類が出版されることになった。二者併立の状態は安永末まで続いていくが、新形式を採用したのが好評だったのか、また鱗形屋の衰運が作用したのか、蔦屋版は鱗形屋版を圧倒し、やがて天明3年(1783)吉原細見の出版権は蔦屋重三郎の完全な独占となる。

重三郎は自己の吉原育ちという出自を生かして、まず特殊な地域に根ざしたタウン情報誌「吉原細見」に着眼点を置き、その出版権を得ることによって、彼の版元としての足元づくりを始めていったのである。