病にかかっているのは「ひろゆき型ネット論壇」だけだろうか?
新刊の「論破という病」というタイトルは、中央公論新社の編集部にいる方の発案です。
そのイメージの中では、「ネットに溢れる安手の論破合戦」=「論破という病」であり、そういう“くだらない言説”を乗り越えて、旧来メディアが主導してきたような、知的で含蓄があり教養と知恵に溢れた“ほんとうの知性”が通用する世界に日本を引き戻すべきなのだ、という発想が、無意識にでもあったかもしれません。
もちろん、著者である私自身も、ネットに吹き荒れる論破合戦のような風潮には大変問題意識を持っていますし、それを克服していかねば日本国に未来はないし、そのための方法についての本を書きたいと思っていることは全くその通りです。
しかし、では今の日本において「論破という病」にかかっているのは、果たしてそういう「ひろゆき型ネット論壇」だけでしょうか?
「ひろゆき型ネット論壇」が蔓延し、“ほんとうの知性”が貧困化した今よりももっと以前、古き良き日本においては、知性と教養に溢れたインテリたちがお互いに敬意を払いあいながら、それはそれは有意義で含蓄のある議論をしていた……でしょうか?
私にはとてもそうは思えません。
「ひろゆき型ネット論壇」を象徴的に“平成時代の議論”と呼んでみましょう。一方でそれ以前の、新聞や雑誌といった旧来メディアが強固な地盤を持ち、知的な権威とされる論客たちが華麗な衒学(げんがく)を披露していた時代を“昭和時代の議論”と呼ぶことができます。
冷静に考えてみれば、「ひろゆき型」の“平成時代の議論”と同じくらい、“昭和時代の議論”の方も、人の話を全然聞いていなくて、それこそ「朝まで生テレビ!」的にただただ高齢男性が自分が思ったことを放言しまくって、誰も何も検証しないような世界が広がっていたのではないでしょうか?