結婚して僕が生まれた頃は、家族3人で園の近くに住んでいました。同時期に、東京オリンピックの準備で保育園は近くの一軒家に移転します。2階部分は園長先生一家の居宅。1階が保育園、そして、奥まった一部屋に僕たち一家が移り住むことになったのです。

『いやいやえん』は出版されるや、評判を呼びました。続いて、同じ百合子叔母とのコンビで生まれたのが、『ぐりとぐら』。ただ当初の母の思いは、あくまでも本業は保母。お話を考えるのは、子どもたちを喜ばせたいからでした。

たぶん、保育園の奥の一間で、僕を寝かしつけてから、『ぐりとぐら』や『そらいろのたね』、『かえるのエルタ』、宗弥が挿絵を描いた『ももいろのきりん』などを小さな食卓の上で書いていたのでしょう。

母は僕を連れて出勤、といっても部屋を出れば職場です。みどり保育園は3年保育でしたが、僕は特別に1歳で園児の仲間入り。ベビーベッドが居場所でした。父も土曜の午後、園児に絵画指導をしていました。

卒園が近づいて小学校入学が迫ると、一度保育園の外に出て、ぐるっと一回りして《登園》していたことを覚えています。園長先生が「部屋から出るだけではだめ。外を歩いて通う練習をしなくては」と判断したのです。

毎晩寝る前に、両親は本の読み聞かせをしてくれました。覚えているのは、長めの絵本『はたらきもののじょせつしゃ けいてぃー』。これを父が気に入って幾晩も続けて選び、僕は「またけいてぃー?」と思ったことも。とはいえ両親が出会わせてくれた、今も名作とされる数多くの作品が、今日の僕を形作っているのだと思います。

小学校にも保育園から通いました。先輩の威厳を示すため、保育園のそばまで下校してくると、仕入れてきたお下劣な歌を声高に歌うわけです。後輩の園児たちが「カクちゃんだ。おかえりなさーい」と喜ぶ様子に、《主任保母》も「あらあら」となっていたことでしょう。