眠った母の枕元で語りかけた
おそらく80代に入ったくらいからだと思います。母は緑内障のために、生き甲斐だった読書がままならなくなっていきました。いろいろな方から「聴く本」のCDなどを贈っていただいたのですが、あの人は機械にまったく興味がなくて、ほとんど聞こうとしなかった。人生最大の楽しみがだんだん難しくなり、それと同時進行で足腰も弱っていったように思います。
さらに、父が年を重ねるにつれ、母やほかの誰彼なく暴言を吐くようになりました。高齢者にはままあることかもしれませんが、母は結構つらそうでしたね。このストレスからも晩年の不調に至ったのではないかと思います。
2022年の秋に百合子叔母が、年末には父が亡くなり、母は1年ほどひとりで暮らした後、24年の2月に自宅近くの老人ホームに入りました。何年も過ごすつもりでそこに決めたのですが、貧血の症状がなかなか快方に向かわず、しだいに横になる時間が増えて。
9月に脳梗塞が見つかって入院するまでの、短い間の終の棲家でした。入院後の数日は会話もできたのですが、ほどなく一日をほぼ眠って過ごすようになったのです。
それでも耳は聞こえていたので、家族が耳元で「さんぽ」を歌うと、表情で一緒に歌っていることがわかりました。「歩こう、歩こう」――と、いっしょに口ずさもうとしていましたね。なにせ保母で作家なので、歌詞を大切にしていた。僕が間違えて歌うとしっかり注意されたものです。
亡くなる当日、病院から「おしっこが、ほとんど出なくなった」と連絡があり、仕事を終えて夕方に駆けつけました。ちょうど枕元には『ぐりとぐら』の重版見本が届いていて。僕の妻がそれを耳元で読み聞かせると、母は聞いているように見えました。ただ、その時点でほとんど血圧が測れなくなっていて。結局そのまま、夜半に逝ってしまいました。
さて、僕に残された大仕事は、主亡きあとの実家の片づけ。その昔、石井先生に何度も直されたという原稿なんかが、どこかにあったらおもしろいんですけどね。
でも庭先には、器用で凝り性の宗弥が簡易的な焼却炉を作ってしまっていて。母は「原稿用紙があんまり多いから燃やすんだ」と言って、次々と火にくべていたのを覚えています。
そもそも李枝子さんは「捨てる人」(笑)。奇跡的に、何かが出てきてくれないかな、と考えているところです。