思えば、長い道のりです

親や時代の影響を受けて染みついた、考え方や価値観、努力して得たもの……、どれも生きていくうえで、欠かせないものばかりです。

もちろん愛着もあります。

しかし、人生も半ばを過ぎ、老年を迎える頃になると、かつては大切にしていたものの中にも、もう必要のないものが出てきます。それどころか、人生の後半を生きるのに、かえって邪魔になるものもあります。

本当なら、押し入れや棚を整理するように、身につけてきたものすべてを目の前に並べてチェックし、心身ともに少しでも身軽になりたいところですが、なかなかそんな暇もありません。

仮に目の前に洗いざらい並べたとしても、それぞれに愛着があるので、「これはもう不要!」と切り捨ててしまうのも気が引けます。

仏教では、物事に固執し、とらわれることを執着(しゅうじゃく)と言います。意味は愛、貪(むさぼ)り、没頭、摂取(せっしゅ)、所有、決断、握るなど多様です。

いつでも、どんなことがあっても、心おだやかでいたいと願う人を導く仏教において、執着は、それを邪魔する(乱す) 煩悩(ぼんのう)として扱われます。

執着すれば心が縛られ、離れることができず、同時にそれを失う恐怖から、心がおだやかでいられなくなるからです。

たとえるなら、それは、現金つかみ取りのようなもの。お金をたくさんつかめば、手が穴から抜けません。