最後に「あるがまま」の境地になれた
家の住所を刑事さんに言うと、父と母が迎えに来た。刑事さんは父に「良いお嬢さんじゃないですか」と言った。父は嬉しそうな顔をした。
私は徐々にではなく、一気に治そうと思い、消毒用のアルコールを母に渡した。
それから、大学で人形劇のサークルに入り、床を這いまわって人形を動かした。不潔恐怖症は何処かにいってしまった。
高良興生院は1995年に閉鎖し、阿部先生は森田療法クリニックを開院した。阿部先生との縁は、その後も切れなかった。兄が統合失調症になった時は兄の通院する病院が家族に親切ではなかったので、家族の対応について聞きにいった。難病の父の介護で、どうすることもできない状態の時は、阿部先生に相談し、森田療法の「あるがまま」の姿勢で母と私は耐えた。母が認知症になった時も、私は最後に「あるがまま」の境地になれた。2013年に森田療法クリニックは閉院した。受付の人が私に教えてくれたので、私はお別れの挨拶に行った。
阿部先生は、回りの人たちに感謝していて、「しろぼしさんを含めて患者さんたちがいたから、私も生きてこられた」と話していた。
それ以前に、私は阿部先生が言った言葉を、頼んで紙に書いてもらったことがある。その言葉は、私の人生に大切なので、今でもバッグに入れて持ち歩いている。たぶん同じ立場でないと分からないから、内緒にしている。