アントニオ猪木
(写真提供:講談社)
2022年10月1日に永眠された、プロレスラー・アントニオ猪木さん。実弟である猪木啓介さんは2025年2月、アントニオ猪木さんのライセンス運営を管理する「株式会社猪木元気工場」の新社長に就任し、<元気>を発信し続けています。今回は、啓介さんが<人間・猪木寛至>のすべてを明かした書籍『兄 私だけが知るアントニオ猪木』から、一部を抜粋してお届けします。

生き別れた姉を訪ねて

プロレスファンにはあまり知られていないことであるが、兄貴は1977(昭和52)年6月、カリフォルニア州・ビバリーヒルズで執り行われたモハメド・アリの結婚式に夫婦で招待されている。実はこの直前、兄貴はアメリカで「ある人物」と27年ぶりの再会を果たしていた。

その人物とは、9人いる私たち兄弟のいちばん上の姉、千恵子である。

1950(昭和25)年、21歳だった千恵子は1歳年下のアメリカ人軍医、ベンジャミン・フランクリン・ニコルソン氏と結婚し、その後渡米した。それは私が2歳、兄貴が7歳のときのことだったが、祖父や母は当時、アメリカ人との国際結婚に賛成していなかった。当時の時代状況を考えれば、それは無理のないことだったともいえる。

しかしフェリス女学院に学んだ千恵子は、なかば押し切るような形で結婚、そのまま夫とともにアメリカに渡ったのである。とはいえ、その後しばらくは横浜の家族と定期的に手紙のやりとりをしていたし、関係が断絶していたわけではない。

それから7年後、私たちは一家でブラジルに移住した。そのとき、考えられないことが起きた。すべてを整理して移民船に乗ったとき、アメリカにいる姉の住所が書かれたメモを紛失してしまったのである。

後で分かったことだが、姉は夫の仕事の関係上、アメリカを離れて西ドイツやベトナムを転々としていた時期もあった。そして、日本から手紙が届かなくなったのは、家族の反対を押し切って結婚したためだと思い込んでいた。

それ以降、千恵子と私たち一家は連絡が取れなくなり、そのまま「生き別れ」の状態になっていたのである。

兄貴は千恵子姉さんを忘れたことはなかった。米国武者修行をしていた時代、各地をサーキットしながら消息を追いかけていたものの、有力な手掛かりは得られなかった。ブラジルにいた私たちも、気にはかけていたが広大なアメリカに住むたった1人の女性を、どうやって捜すことができるのか、見当もつかなかった。