兄貴の執念

アリ戦が終わった1976(昭和51)年の夏、兄貴はこう切り出した。

「おふくろもいい年になった。早く千恵子姉さんを見つけないと、本当に生き別れになってしまう。俺もアリと戦って、少しは有名になった。向こうの弁護士に依頼して、本格的に捜してもらおう」

弁護士は、「日本人」「チエコ」「旧姓はイノキ」「夫は医師」といった断片情報をもとに全米に照会をかけ、翌年5月になって「メリーランド州にチエコ・ニコルソンという日本人女性がいる」という情報をつかんだ。

私は当時、ブラジルに滞在していた。新日本プロレスの営業と並行して「アントン・トレーディング」という貿易会社を任され、日本企業のブラジル進出を手伝う仕事も引き受けていた。

『兄 私だけが知るアントニオ猪木』(著:猪木啓介/講談社)

このときは熊谷組の経営幹部と現職のエルネスト・ガイゼル大統領を引き合わせるため現地にいたが、そこに兄貴から国際電話がかかってきた。

「啓介、姉さんの居場所が分かったようだ。俺もアリの結婚式でアメリカに行くから、お前もブラジルから来い」

その話を聞いたときは本当に驚いた。私にとって千恵子姉さんは、2歳のときに別れているため記憶が残っていない。しかし兄貴は姉さんをよく覚えている。

「兄貴、本当にその人は姉さんなのかい?」
「分からない。実際に行くしかないだろう」

私は、英語の話せる熊谷組の部長とともに、ニューヨークへ飛んだ。さっそくタクシーに乗ったところ、部長の英語が運転手にうまく通じない。

「啓介さん、この人ブラジル人だって。僕が来なくてもよかったですね」

部長はそう言って苦笑した。私はニューヨークで兄貴と合流し、日を改め、約300キロ離れたメリーランド州の田舎町に向かうことになった。