選挙という祭り

こうした思考をより推し進めていった先に今回の都知事選がある、と読み解くと混乱がクリアに見えてくる。当選度外視の立候補を公言する政治団体にとって選挙は名前を売る手段にすぎない。政見放送や選挙運動で奇抜な行動を繰り返し、SNSで話題になれば上出来という発想で“宣伝”と“投資”に振り切る。最終的な狙いは話題作り一発で議席が狙える参院選、地方選での当選だ。

『「嫌われ者」の正体 日本のトリックスター』(著:石戸諭/新潮社)

立花に触発されるように、泡沫候補たちもあの手この手で目立つ方策を考えだし、表現の自由すらも建前に使い「悪名は無名に勝る」とばかりにほぼ全裸の女性ポスターまで掲示する輩も現れるに至った。民主主義の根幹にある、誰もが立候補できる権利を建前に使う選挙戦の極北は、インターネットを主戦場にして特定の候補者を追い回し、大音量のヤジで街頭演説の妨害をする者まで現れた24年の衆院東京15区補選にあったと思っていたが……。

悪い方向に流れている根底にあるのは、選挙で目立ってやろうという行為だけでなく、選挙が盛り上がることが重要であるという「選挙フェス」的な発想そのものだというのが私の見立てだ。

「選挙フェス」の源流は、直近でいえば2013年参院選に立候補した三宅洋平だ。私も当時取材していたが、選挙フェスと称してレゲエを演奏しながら脱原発などを語った三宅の選挙は確かに斬新ではあった。

今から振り返れば、彼の言葉は単に感情に訴えかけるだけのチープなもので具体的な政策もなかったが、「反安倍晋三政権」を訴える左派・リベラル系著名人や知識人を中心にした支持を獲得していた。

その後、演説会に「祭り」という言葉を多用したのは、一時、三宅とも共闘したれいわ新選組の山本太郎だった。

「生活が苦しいのを、あなたのせいにされていませんか? 努力が足りなかったからじゃないか? 違いますよ。間違った自民党の経済政策のせいですよ」と「上」と「下」の対立構図を作り上げながら、彼は国政選挙でも20年の東京都知事選でも選挙という祭りの主役になろうとした。