公園のリブ集会で、発言者の話に耳を傾ける田中美津さん(写真提供◎松本路子)

にもかかわらず、私は「お母さんがあんなに怒ることが楽しかったなんて悪い子だ、私は汚れてる」と思い込んでしまって……。その頃は、まだバージニティー(処女性)が信仰されていた時代。「私の上にだけなぜ石が落ちてきたのか」と、自分だけがディスカウント台に載ってしまった不運を長い間呪い、自己嫌悪し続けました。

憂鬱がひどくなると、「この星は私の星じゃない。だからあんなことが起きたんだ」と思いながら。そうすれば少しは深く息ができたから……。

 

徐々に、自分の言葉で語れるようになって

——「汚れた私」という思いは美津さんの生き方を決定づけた。高校卒業後、広告会社に就職するもすぐに退社。お茶を習い、着物姿で家業を手伝っていた25歳の時に、ベトナム反戦から新左翼運動に入っていく。日本全国で全共闘運動の火の手が上がっていた。

せっかくコピーライターになったのに大した執着もなく、上司との不倫が重荷になって9ヵ月で退社しました。運動に入ったのは、汚れた自分を浄化したいという密かな願いからで、最初はベトナム孤児の救援活動。傷ついて泣いているベトナムの子供は私だという、いわば自己救済の運動でした。

もちろん、学生たちと一緒にデモもやりました。でも全共闘運動には明らかに女性差別があって、発言するのも委員長も男ばっかり。女は飯炊きや救援や性的な対象。運動が衰退期に入ると、自分より意識が高いと思っていた男たちが、サッサと結婚していって。私の中では、まだなんにも終わっていないのに……。

そんな時に、ある集会で「何かしゃべれ」とマイクを渡され、何もしゃべれませんでした。男中心の左翼運動では、何かを語る時の主語が「我々はァー」だし、「市民としてェー」で、つまり「人間」だったのね。私はそうした語りに違和感があったんだけど、何に引っかかってるのかが、わからなくて。でもやがて、自分はこれまで「女として」という視点でしかモノを考えたことがなかったということに気がついていった。

「女として」という視点で語ることは、ダメなことなの? いや、そうじゃない。では、何がどう問題なのか。考えていくうちに、「女として」の視点と、「どうして私の頭の上に石が落ちてきたんだろう」という長年の疑問が繋がった。性的虐待という石は、私が女であることと深く繋がっていたのです。 そのことに気づいてから徐々に私は、世界を自分の言葉で語ることができるようになりました。