好きな男が触りたくなるお尻はほしい
——連赤事件の衝撃の反動のように、美津さんは仲間と「点火したばかりのリブの火を消してはならない」と必死に走り出す。その動きは女たちの圧倒的な共感を呼ぶが、マスメディアは「女のヒステリー」と嘲笑し、バッシングを繰り返した。
活動の最初の大きな一歩が長野で開いたリブ合宿で、全国から300人ほど集まりました。参加した女たちは以後、各地で自分たちのリブをやり始める。女たちのパワーが一斉に噴き出したって感じ。私たちも正月の2日からビラまきをやって……。
男メディアから「ブスの決起」なんて揶揄されても、構っちゃいられなかった。彼らの敵意は、既得権を奪われることへの恐怖の表れだと思ってましたから。そんなことより、何代にもわたって封印されてきた女たちの怒り、悲しみを私たちの代で終わらせたいの一念で「私たちは歴史の必然として生み出されたんだ」と、みんな母親の仇をとるような気持ちでした。(笑)
私たちがやったことは啓蒙運動じゃないし、「リブはノーブラでGパンはいてペタンコ靴の、化粧しない女たちだ」と型にはめられるのを恐れていたから、男中心の歪んだ世の中を笑い飛ばすミューズカルを上演したり、ヒールのある靴やミモレ丈のスカートはいてデモに行ったりと、自由闊達を心掛けて運動しました。
ある時取材を受けて、27歳だったのに26歳と答えてしまった私。年齢なんか気にしたくないけれど気にしている私が、気にならない世の中を求めて立ち上がったのがリブという運動でした。
嫌いな男にお尻は触られたくないけれど、好きな男が触りたいと思うお尻はほしい。○か×か対立させて考えるのではなく、矛盾した自分をまるごと肯定するところから出発する。それがリブの一番いいところだったのではないか、と思います。
——75年、国連がメキシコで開いた第1回世界女性会議に出席するのを機に、運動から離れた。美津さんがリブを牽引したのは正味4年半ほどだ。偶然にもその時間は、らいてうが『青鞜』の発行人だったそれと一致する。
人間が一心に何かをやり続けると、だいたいそれくらいの時間になるんじゃないかしら。もともと慢性腎炎だったので、激しい活動を365日続けているうちに、身体がボロボロに。身体も辛かったけど、より辛かったのは、私が言うとみなスグに頷いてくれるような関係ができ上がってしまい、それ、ありがたいけど、辛かった。そういう意味でも限界でした。