——25歳の平塚らいてうが『青鞜』で「元始、女性は太陽であった」と高らかに謳ったおよそ60年後に、27歳の美津さんは「便所からの解放」と題した一文を書く。「母」と、性的対象である「娼婦(便所)」に二分されていた女性の役割を撃ち、そのどちらにも立たない私を生きると宣言したのだ。

子を産み育てる貞節な「母」にも、性的対象としての「便所」にもなりたくない。「母」も「便所」もともに男のイメージの中に生きる女、つまり「どこにも居ない女」です。女の解放とは、そんな「どこにも居ない自分」からの解放だ……と書いたビラを集会でまいたら、女たちがわぁーっと取りにきてね。「時代を掴んだっ」って思いました。

ウーマン・リブは性的な問題から「女性差別」や「女性解放」をウンヌンした初めての運動でした。そうだ、 当時は「おんな解放」と言っていたの。「おんな解放、闘争勝利」と叫びつつ銀座をデモして、リブの誕生を世間に初めて告げた夜のことを、今でも覚えてます。

——この時期、美津さんは、一瞬、武力革命を掲げる連合赤軍の永田洋子とも交差する。政治の時代にピリオドを打った「連合赤軍事件」が発覚する半年前、71年の10月に突然、永田から「山岳ベースを見に来ないか」と電話が入ったのだ。

ミーハーな私は好奇心を抑えられずに、山の中まで行ったんです。間違っても仲間だと思われないようにミニスカートはいて。連れて行かれたのは、木立の下にビニールシートが敷いてあるだけの空間でした。えっ、これが武装闘争の山岳ベースなのと驚いた。

そんな粗末な空間にいかにも真面目そうな男女12、13人くらいが生活していて、一人お腹の大きい女性がいた。綺麗な笑顔の人で、当然印象に残りました。

でも、まさかあんなことになるなんて! 翌年の4月に連合赤軍事件が発覚、次々と惨殺死体が発掘されていった。なんとあの爽やかに笑っていた妊婦も、お腹の子どもぐるみ殺されていた……。もう恐ろしさに日本中がシーンとなりました。

山岳ベースを見に行っただけだけど、捕まるんじゃないかと、私は怯えました。でも怯えつつ考えた。マスメディアは永田洋子を鬼畜のように報じているけれど、この事件は彼女の過剰な自己肯定欲求がもたらしたという一面がある、人間だから起こしてしまったことなのだ、と。

だから、捕まる前に、そのことだけは言っておきたいと、「永田洋子はあたしだ」という一文を、事件から2ヵ月後に『図書新聞』に載せてもらったの。

私はパクられずにすんだけれど、殺されたお腹の子に対して、「あの場に居合わせた責任というものが、私にもあるのではないか」という思いから長い間逃れられませんでした。