母はいつも先生に「私もこの子にどんな可能性があるのかわかりません。だからこそ何でもやらせてやりたいので、個性を潰すようなことだけはしないでほしい」と直談判してくれました。

小学校で国語の先生と折り合いが悪いと打ち明けた時も、「その先生には国語だけは習っといで」と言ってましたね。「助言にふりまわされたらアカンで。それはその人の価値観やからね」というのが母の教えでした。

そんな母のもと、私は自分の個性を活かして中学生の頃からジャズバーで演奏をするようになります。高校時代に渡米したいと言った時も、「お母ちゃんは、アンタが困った時はしっかり守ったる。恐れず何でもやりなさい」と背中を押してくれました。

「ただし寿命というもんがあるから、私はいつかいなくなる。そうなった時に一人で生きていけるように、しっかりいろんなことを経験してきなさいよ」と続きます。

傍から見れば、母は生きる哲学を持っている人。親戚に言わせると、戦時中でも「私は大学へ行く」と言い張って福岡から名古屋へ行くほどのわがままな人でした。意志が強いというのはわがままと表裏一体なのかもしれませんね。

でも私は母が大好きだったし、尊敬していました。母から命じられたわけでもないのに、物心ついた頃には敬語で接していたんです。4年前に母が96歳でこの世を去るまでほとんど言葉を崩したことはありません。