正義中毒より根深い依存の実態
人間は高度に社会的な生物である。ほぼいつも、誰かをアイコンとしてその人を多くの問題の元凶とみなし、あるいは日々の不満や鬱憤を転嫁してそのアイコンを責め立てることによって快楽を得ている。そうすることによって複雑な構成の集団を維持している。
これは、快楽によって裏打ちされている仕組みであるので、アイコンが消失するとまた次の対象を探すことになる。快楽に依存するようになった人々が探すものは常に自分ではない他者の瑕疵であり、少しのキズでもあればそれを狂喜して裁きに群がってくる。この現象については以前、「正義中毒」と名づけて警鐘を鳴らしたつもりでいた。しかし、これは依存症と同等の扱いをすべきものかもしれず、私がただ書き記しただけで役割を果たしたと考えていたのはどうも甘い考えであったようだ。
誰かに裁きを加えようとする一般大衆の様相は以前よりも過激なものになったようだ。より小さなことをも見逃さず、より不寛容に、やり直すことを許さず、より厳しい制裁を求めるようになりつつあるように見える。
注意すべきは、依存症というのは本人の意志の力や心の弱さなどといった個人の資質に拠るものではなく、そもそも人間には快楽に抗える仕組みがないために、極めてベーシックな人間の(あるいは生物の)脳の機構を由来として起こるということを知っておく必要があるという点だ。
人間がかつて苦痛としてきたものは、人類の技術革新への不断の歩みによって克服されつつある。もはやわれわれが持っていた苦痛を快楽に変える生物学的な機構が、われわれ自身のたゆまぬ努力によって“時代遅れ”のものとなってしまったのである。