健康な喜びを忘れた日本人

私たちは喩えるなら、乾燥に強い種であるのにもかかわらず熱帯雨林に移植されてしまって動けない植物のようなものだ。少ない快楽で生きていけるようにつくられているのに、あとからあとからこれでもかというほど快楽がやってきてしまう。

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くり返しになるが、現代日本では、誰かを簡単に攻撃できてしまう快楽の中に溺れて、健康な喜びを忘れてしまった人が毎日毎日くり返し、次々にやってくる快楽のタネに中毒させられたまま時間を浪費しているようにも見える。日々の苦痛、不満、不安、またメタ的には人を攻撃すれば自分もまた同じ咎によって攻撃されかねない、そうしたあらゆる苦痛を忘れるためにまた、誰か新しいイケニエを探して「正義」の名のもとに攻撃する。正義中毒は「コンプライアンス中毒」と新しく呼びならわしてもいいだろう。

快楽を自ら制限しなければ、快楽に殺される。人間はそんな時代を、自らつくり上げてしまったという皮肉な構図だ。少しでも瑕疵があれば、寄ってたかって快楽をむさぼられてしまう。攻撃の的になる。

人は貧しいから攻撃するのではなく、快楽のために攻撃する。コンプライアンス中毒は、各人の私的な、あるいは明文化されもせず公的でもないコミュニティの基準(日本では「空気」と呼ばれる)をルールとして、誰かをイケニエとして祭り上げたときに起こる。炎上でも、差別でも、いじめでも、偏見でも、あらゆる社会的排除と関係づけられるものはこれで説明がつくだろう。

もちろん私はこのような現状を健全だとは思わないし、多くの人もそうであろうと思う。けれども、大多数の人が「おかしい」と思っているにもかかわらずなぜか変わらないのだ。ほとんどの人が自分だけはその中毒から自由で、正しいことをしていると根拠なく信じ、犯人は外側にいると確信するバイアスの中にいる。自身の無謬性の根拠が存在しないことを指摘すれば怒り出して、指摘した人物をたたき始める。不思議かもしれないが、自身がこういうバイアスを持つことに多くの人間が気づかない限り、状況は残念ながら変わることはないだろう。