(写真提供:Photo AC)
子どもの巣立ち、親の介護など…中年期を迎え環境が変わり、この先の人生を憂いている方もいらっしゃるのではないでしょうか。そのようななか「後世で『偉人』と称された人のなかには、人生の後半で成功した『遅咲き』の人が少なくない」と話すのは、偉人研究家、伝記作家の真山知幸さん。そこで今回は、真山さんの著書『大器晩成列伝 遅咲きの人生には共通点があった!』より「阪急電鉄」の生みの親・小林一三が「創作者」という長年の夢をかなえるまでを一部引用・再編集してお届けします。夢を諦めきれないまま、一三は30代で阪鶴鉄道(のちの阪急電鉄)の監査役に就任。新しい鉄道の敷設を頼まれた一三は、資金調達に苦労しながらも試行錯誤を重ねていき――

「郊外生活」のトレンドをつくり出す

一三は沿線周辺となる土地を31万坪も買収。その土地で住宅月賦販売を開始しました。まだ月賦が、服や自転車にくらいしか組まれていなかった頃に、初めて「住宅ローン」を適用したのです。

住宅販売の謳い文句は、「排煙の漂う不衛生な都会から脱出し、清潔で爽やかな郊外生活をしよう」というもの。「郊外に住むことこそが高級な暮らしだ」と、人々の価値観の大転換を図りました。

この宣伝作戦が大いに功を奏し、住宅は飛ぶように売れ、予想を超える人気を博します。

明治43(1910)年3月10日、梅田─宝塚間、石橋─箕面間の第1期工事完了を経て、箕面電車は予定より21日も早く開通しました。

梅田、池田、宝塚の3箇所の停留所では、草花のアーチをくぐらせ、夜間にイルミネーションが点灯。

さらに宝塚には舞妓が出迎え、空には軽気球が飛び、響き渡るは100発の号砲……。まるでお祭りのような演出は、もちろん一三が考えたものです。

加えて、一三は根回しも忘れていませんでした。彼はあらかじめ、沿道にあるすべての小学校に「箕面有馬電車唱歌」を配布。開通日までに歌を流行らせるという仕掛けを施していました。一三ならではの芸の細かさだといえるでしょう。