「母は年を重ねても、背筋はまっすぐ、凛として、言葉遣いは美しく、娘バカと言われそうですけど、『年をとることは怖くない』と思わせてくれる素敵なレディでした」撮影:藤澤靖子
2021年10月6日、松島トモ子さんは自身のブログで、2日前に最愛の母が亡くなったことを明らかにしました。18年、弊誌に母の介護について語ったくださった松島さん。4歳で映画デビューして以来、母・志奈枝さんと二人三脚で芸能活動を続けてきましたが、母が95歳になって認知症を発症し、一時は親子心中が頭をよぎるほど、心身ともに追い詰められたといいます。介護も4年目に入り、ようやく隠すことなく語れるようになったという心境を語ったインタビューを再配信します(構成=福永妙子 撮影=藤澤靖子)

95歳の誕生会でのショックな出来事

母はとてもおしゃれで、90代になっても、外出するときはスーツにハイヒールでした。商社勤めの祖父は海外赴任が多かったため、娘時代は香港でイギリス系の女学校に通い、ペニンシュラホテルで社交界デビューしたそうです。お洋服も朝、昼、晩で替えるようなお嬢様育ちでした。

父は終戦後、生まれた私の顔も見ないままシベリアで病死しました。父を知らない私ですが、寂しいと思ったことがないのは母のおかげ。子役の仕事を始めてからは、「松島トモ子」の統括プロデューサーのように、常にそばにいて支え続けてくれたのです。

年を重ねても、背筋はまっすぐ、凛として、言葉遣いは美しく、娘バカと言われそうですけど、「年をとることは怖くない」と思わせてくれる素敵なレディでした。「トモ子ちゃんの立派なお葬式を出してから私は死ぬ」が口グセで、母を知るみなさんも、「うん、そのほうがいい」と納得。そのくらい、しっかりとした人だったのです。

そんな母に認知症の症状があらわれたのは、2016年の春のことでした。痛めた手首に巻いた包帯を、すぐにとってしまう。ギプスに替えてもらったものの、それも切る。装着し直すために病院に連れて行くのですが、それが1日に2度、3度と重なって。困って家中のハサミを隠すと、今度は包丁で切ろうとします。

その時期、私はコンサートやミュージカルの舞台で多忙を極めていました。いつも仕事を応援してくれている母が、なぜ私をこんなに煩わせるのか不思議に思うと同時に、腹立たしくもありました。ただ、このときは、おしゃれな母はギプスがイヤなのだろう、くらいに受け止めていたのです。

「これはおかしい」と決定的に感じたのは、5月に中華料理店で開いた母の誕生会。本来の誕生日は2月ですが、寒い時期ですし、お招きする方たちの都合もあり、時期をずらして祝うことになったのです。

その席で、母はいつもの母ではありませんでした。人の話をまったく聞いていない。ひたすら料理を食べ続ける。親に言う言葉ではないかもしれないけれど、まるで“餓鬼”の姿そのものでした。ふと、ずり上がった母のスカートを直そうと手をのばしたとき、真っ青になりました。失禁していたのです。母を気遣うことよりも、その場をどう取り繕うかで頭がいっぱい。このときを境に、一気に症状が出始めました。