私には余裕がなく、母を思いやることもできない。母も混乱したでしょうね。「いじめられる」と叫ぶ一方で、私の姿が少しでも見えないと、「トモ子ちゃん、どこに行ったの?」と不安がって大騒ぎする。
包丁を握り「一緒に死にましょう」と言ったり、私が首に巻いていたスカーフをんで、「二人で首を吊ろうね」と迫ってきたこともあります。私も追い詰められて、「親子心中するしかない」と思うことがたびたびありました。
ただ、相談に乗ってくれていたケアマネジャーさんは、私と母の長年の関係性からくる“共依存”を見抜き、「この親子は離さなきゃいけない」と思ったようです。
いろいろな施設も見てまわりました。けれども、私自身が「ここに入りたい」と思えるようなところが見つからない。何より、母は今住んでいる家が実家でもあり、大好きなのです。
母は終戦直後、乳飲み子だった私をカンガルーのようにお手製の腹袋に入れ、命がけで日本に連れ帰ってくれました。その後も、母の人生と私の人生は一つに絡み合い、母は私のために生きてきたようなもの。その恩があります。
フルタイムで働く方にくらべて、私の仕事は時間の自由もききやすい。施設に入れるという選択肢は、自然と消えていきました。
仕事をやめてはいけない、と諭されて
引き受けた仕事は絶対にお断りしない。最後までやり遂げるのがプロというもの。そう叩き込まれて今年で芸能活動70年になりますが、母が認知症になってから、はじめて自分から仕事をキャンセルするようになりました。何しろ過呼吸で、まったく声が出せない。体重も40キロから33キロに落ち、体力的にもちません。
発症から半年が過ぎた12月。例年ならば、あちこちのステージでクリスマスソングを歌っている時期なのに、このときの私はマスクをした仏頂面で、人格が壊れてしまった母と毎日、家にいる。「やまない雨はない」と慰めてくれる方もいたけれど、心の中では、「やまない雨もあるわよ」とつぶやいていました。
そんな気持ちに変化があらわれたのは、かかりつけ医を認知症専門のお医者さまに代わっていただいてからです。認知症のなかでも、母はレビー小体型認知症にあたるとわかりました。要介護認定の区分も「要介護4」に変えていただけたのです。
母が壊れていくと思ってつらかったけれど、「レビー小体型認知症の特徴だから仕方ないんだ」と思うと、心底ホッとしました。処方された薬も、最初のうちは「これは毒だ」と大騒ぎして吐き出していましたが、飲むと自分自身も楽になることに気づいたのでしょう。進んで飲んでくれるようになりました。
ただ、仕事はいったん全部やめようと思いました。予測のつかない母の行動は相変わらずで、仕事に集中できる状態じゃない。でもケアマネジャーさんがおっしゃったのです。「介護はいつまで続くかわからない。介護から解放されてあなた自身の時間を持つためにも、仕事をやめてはだめですよ」。本当にその通りだったと、今になって思います。