20歳前後の年齢差

宣孝とは20歳前後の年齢差があったが、これは当時としては、女性が嫡妻(ちゃくさい)でない場合は、あり得ない話ではなかった。

宣孝は紫式部と同居しておらず、いずれかの旧妻(嫡妻)の許で暮らしているので、紫式部は嫡妻の地位を手に入れたわけではなかった。

いったいに仮名文学を記した女性は、『蜻蛉日記』の藤原道綱母をはじめ、嫡妻でない人ばかりなのである。

いつともしれぬ夫の訪れを待つ女性の生活(を描いた文学作品)を、「当時は妻問婚だった」などと平安貴族一般の結婚形態と勘違いすることは、厳に慎しむべきであろう(夫と同居する嫡妻の描いた日常など、面白くもないであろう)。

※本稿は、『紫式部と藤原道長』(講談社)の一部を再編集したものです。

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紫式部と藤原道長』(著:倉本一宏/講談社)

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