母にしたかったことは、こんな程度じゃない

僕はその後家庭をもって、子どもが3人生まれ育ち、それぞれに独立して幸せにやってくれている。今度また娘のところに孫が生まれたのですが、娘がだんだん母親っぽい顔つきになっているのを感じています。僕の妻も、妻であると同時にこどもたちの母親であり、「母の顔」を持っている。それを見てとても幸せな気持ちになります。苦労した僕のおふくろの命が、こうやってちゃんとつながっていくんですね。

働きづめのおふくろに楽をさせたくて、中学の卒業式の翌日に京都にいる姉を頼って福井を飛び出しました。母はどんな時も僕を応援してくれていたし、僕の才能を信じてくれていたし、僕の一番の理解者でした。

作曲家の上原げんと先生の門下に入り、コロムビアの全国歌謡コンクールで優勝、さて、いよいよ歌手デビューかと思ったら上原先生が亡くなられ、後ろだてのない状態で松山まさるとしてデビューすることに。それが1965年、60年前のことです。このとき、故郷の福井の小さな町では、地元から歌手が誕生したと大騒ぎになったんですよ。母もきっと誇らしかったと思います。

でも思うように売れなかった。レコード会社を移り、芸名も変え、僕の下積みの日々が始まります。ラッキーなことに「捨てる神あれば拾う神あり」で、いつも誰かが僕を助けてくれました。これも母が「人の恩に対して感謝する」ことを僕に教えてくれていたからこそだと思います。市川昭介先生や遠藤実先生とも巡りあえました。

「三谷謙」になってから声をかけてもらい、新宿で弾き語りを始めます。いろいろなクラブで歌わせてもらえるようになり、それなりに収入も増えていった。もし母の存在がなければ、もしかしたら僕はあそこで満足していたかもしれません。僕をかわいがってくれる人たちもたくさんいたし、普通のサラリーマンよりもずっと経済的な余裕もできて、少し母に恩返しもできるようになっていました。正直にいうと「この道もありなのかな」と思ったこともありますね。でも、僕が目指していたのはこういう場所じゃなかったはずだという思いはずっと抱いていたんです。「有名な歌手になって、母に楽をさせる」――これが僕の目標だったわけですから、「有名な歌手」にならないうちは目標を達成したことにならないんです。僕が母にしたかったことは、こんな程度じゃない。こんなことであきらめていたら、本当の楽はさせられないと思っていました。

「第37回美浜・五木ひろし ふるさとマラソン」五木ひろしさん
「第37回美浜・五木ひろし ふるさとマラソン」でスターターを務めた五木さん