退路を断ち「全日本歌謡選手権」に挑戦

とはいえ、福井放送のディレクターから「全日本歌謡選手権」の話を聴いたときには本気で悩みました。もちろん、有名になりたい。歌手として成功したい。でも、そのためには、今、三谷謙を応援してくれるお客さんや銀座のクラブの人たちといったんさよならしないといけないと思ったんです。もちろん、銀座のクラブの場所を残しておいて、そのままチャレンジする選択肢もあった。でも、当時の僕は、経済的な甘えがあると本気になれないような気がしていた。アマチュアならいいけどプロなんだから、番組に出て途中で負ければプロとして失格の烙印を押される可能性があります。だからこそ「やるからには不退転の決意で臨む」という気持ちが強かったので退路を断って覚悟を決めた。そして3つの銀座のクラブに理由を話して辞めさせていただき、新たな挑戦をしたのが1970年、大阪万博の年です。

当時僕が所属していたレコード会社の社長は「レコード会社って儲からないからやめちゃおうかなあ」と思っていたらしい。当時「全日本歌謡選手権」の審査員をしていた山口洋子さんに、山口さんがママをやっていたクラブ「姫」でそんな話をしたそうです。そしたら、山口さんが「お宅のレコード会社には素晴らしい歌手がいるじゃない!」と…。それが4週、5週と勝ち進んでいる最中の僕のことだった。当時の社長は、三谷謙という歌手が自分の会社にいることすら知らなかったんですよ。

めでたく10週勝ち抜いて、「五木ひろし」としてのデビューが決まり、山口さんから「よこはま・たそがれ」というデビュー曲ももらった(編集部注・作曲は平尾昌晃さん)。そして爆発的な大ヒットを記録することができました。社長は「10年で300億稼がせてもらった」なんて言ってましたよ。(笑)

五木ひろしになって、森光子さん司会の『3時のあなた』という番組にゲストで呼ばれた時に母を連れていったら、「なんか今までと雰囲気が違うねー」と言っていました。売れている歌手に対する扱いの違いを、母も感じたのかもしれません。そのときの母の顔もはっきりと覚えています。

「第37回美浜・五木ひろし ふるさとマラソン」五木ひろしさん
ミニコンサートの様子