課題も、クリアするごとにより難しいものを設定していきます。「むくんだ足を優しくマッサージする」「アロマのクリームを首筋に塗る」とか。「感謝の気持ちを手紙に書いて渡す」という課題もクリアしました。「今まで、私はいい娘じゃなかったね。ごめんなさい」と……。母の反応は見ずに帰ってしまいましたが。(笑)

何度も挫折しそうになりました。病人ですから、調子が悪ければいっそうわがままになる。スッキリしない気分で部屋を出たこともありますし、毎回、へとへとに疲れ切りましたね。仕事終わりで深夜に出発し、未明に着いて、個室に併設された狭いスペースで、倒れ込むように休んだこともしょっちゅうでした。

母は最後まできちんとした人だったので、私が疲れて横になっていても、朝の8時を過ぎると「布団を畳んで」と、10分おきに催促してくる(笑)。新聞はテーブルの右上、メガネはその横。母の厳格なルールに従うと、とても満足そうでした。

そして母と同じ部屋の空気を吸うのも耐えられなかったところから、最終的に普通の母と娘の他愛ない会話を交わせるまでに、関係を修復できました。「今日、何食べた」「新聞のあの記事は読んだの」とかそんなことです。母から「ありがとう」と言われることも増えたような気がしました。

母は、娘の中学受験とか、勉強の相談に乗れなくてごめんなさい、なんて謝っていました。私としてはそういう面での期待は全然していなかったのですが……(笑)。母は私のことをやっぱり少しも理解していないけど、私の役に立ちたいと思ってくれていたんですね。

母がいよいよ危ないとなった頃、私は舞台の稽古が始まっていました。父のときに疲弊してしまった経験から、私を含む家族や親戚みんな、体調を崩さず、普段通りの生活を送りながら準備をしましょう、と決めていたのです。

そして19年の10月、母は旅立ちました。私は父のとき同様、死に目に会うことはできなかった。でも、後悔はなかったです。私が母に対してずっとぬぐえなかった、「母ではなく教師じゃないか」「母ではなく女じゃないか」という思いがどうだってよくなり、「母といえど人間」ということが、頭だけではなく心にストンと落ちていました。

葬儀後、母の友人たちから聞く母の人柄は、私の知っているそれとはまったく違いました。いかに母の一面だけしか知らなかったのかを思い知らされる日々です。

同年代の友人たちと話すと、近い将来に訪れる親の介護を「できればやりたくない」と言う人がほとんどですね。私は自分の経験から「頑張ってみてもいいんじゃないかな。自分が楽になれるよ」と思ったりします。母との関係がよくなったら、ほかの人間関係もよくなりました。いつも心の中にあった怒りみたいなものは、不思議とないです。

亡くなる直前、母は私に手紙を書いて渡してくれました。実はまだ、封を切らずに持っているんです。もしかしたら教師特有の指導や評価めいたことが書いてある可能性も捨てきれませんが(笑)。それ以上に、開けて読んでしまうのがもったいない。娘が結婚するときや、いよいよ私があの世にいくときになったらやっと読めるかも……。いまは、そんな気がしています。