積み上げたキャリアを捨てた

H子さんは、教員を退職して母親に寄り添う意を決した。何回か授業の代行を同僚にお願いしており、もうこれ以上の迷惑はかけられなかった。

中高生向けの通信添削をする仕事を教師仲間が紹介してくれた。その収入と母親のもらう遺族年金で、何とかやっていけそうだった。正規の教員になったばかりのH子さんには貯金はあまりなく、退職金もわずかであったが、必要なときはそれを使うことにした。母親のことが優先だった。

相性が合わなかった担当ケアマネージャーには、「今後はもう介護保険を使わないし、あなたの世話にもなりません」と伝えた。

「ああ、そうですか」という短い答えが返ってきただけであった。

それから11年が経ち、母親は老衰で亡くなった。脳疾患はほとんど悪化しなかった。H子さんは、自分が寄り添う決意をしなかったら母親はもっと早くに亡くなっていたと思っている。その意味では退職したのは正解だった。

(写真はイメージ。写真提供:Photo AC)

だが、自分自身の人生のことを考えると、無念さはある。正規の教員になるために非正規の講師として頑張って、ようやく認めてもらえた。

その職を失い、交際を始めていた同僚の理科教師とは破局した。彼は通信添削の仕事を紹介するなど、協力もしてくれた。けれども、H子さんのいつまで続くかわからない介護生活を見て、「待っていたら、俺はオッサンになってしまうな」とつぶやいた。

人と協調するのが苦手な母親のほうも、彼とは慣れ親しんでくれそうになかった。H子さん自身も、もし彼と結婚しても、介護者と妻の役割を両立していける自信はなかった。ましてやそこに子育てが加わったなら、空中分解しかねなかった。