新たな人生の扉を開けた瞬間
というわけで。今私が向かっている店である。ここならば、少なくとも店のご主人に対してはちゃんと会話ができる「話題」があったのだ。
というのも、私はご主人に、多大なる恩義を受けたばかりであった。当時担当していた地元の酒蔵を紹介する連載記事で、某人気酒蔵の社長をご紹介して頂いたおかげで無事に取材させてもらえる運びとなったのだ。
となれば、ここは是非とも直接お顔を見て報告とお礼を申し上げねばなるまい……というのはもちろん口実で、そんな礼儀正しい行動を取ったことなど人生初である。
いろんな意味でスミマセン……でもそのような大義名分なくしては、一人で夜の暖簾をくぐる勇気などとても出やしなかった。
しかしこうなってみれば、人様の世話になるということは、カタジケナイというより実はなかなかの資源なのかもしれぬ。
我らはつい、人に迷惑をかけるのもかけられるのも避けて生きていきたいと考えてしまうが、もしかするとそうではなくて、人生は人に迷惑をかけたりかけられたりしながらやっていく方が案外豊かなのかもしれぬ……などと日頃考えもしない哲学的なことをごちゃごちゃ考えているうちに、いつの間にやら店に到着してしまった。
やはり、いざとなると足がすくむ。しかし30分以上かけて歩いてきたんだから、今さら引き返すのはさすがにないやろと自分で自分を追い込んで、意を決してエイやと扉を開けた。
それはまさしく、私が新たな人生の扉を開けた瞬間であった。
※本稿は『一人飲みで生きていく』(幻冬舎)の一部を再編集したものです。
『一人飲みで生きていく』(著:稲垣えみ子/幻冬舎)
一人ふらりと出かけた街でふらりと店に入り、酒と肴を味わってリラックス。そんな「一人飲み」に憧れて挑んだ修行。数々の失敗の先に待っていたのは、なんとも楽しく自由な世界。まさか一人飲みで人生が開けるとは!――アフロえみ子と一緒に冒険し、お金では買えない、生きる上で一番大事なものを手に入れるスキルまで身につく、痛快エッセイ。