それなら、彼の家にいる彼は、そこで何の役をつとめ、彼の妻は何(ど)ういう役割をもつのだろう。
無意識にそこから目をそらして来た彼の妻の影像に、私は、むりやり自分の目を凝らすようにしつけはじめた。8年間、唯の一度も不平がましいことをいわず、唯の一度も私を訪ねても来ず、うらみごとの一つ云っても来ないその人……無神経なのか、生きているのか、もしかしたら、神のような人なのか……。
8年間、彼が一言も悪口などいったことはなく、むしろ、言葉のはしばしに、尊敬と愛をこめて思わずもらし語りしたその人……。
「あの人も私知ってるのよ、悪いけど、あなたよりずっといいわよ。きれいで、やさしくて、かしこくて……」
遠慮のない正直な友人が、はっきりそう私に聞かしたその人……。そしてついに唯の一度も顔をみたこともないその人……。
彼女を堪えさせる力は何なのか。それは、彼の愛以外にあるはずはなかったのだ。私が彼の愛を信じられたように、彼女も、彼女の前に坐る時の彼の愛を信じられるものがあったのだ。
来いと云えば全部来るに決っていると単純に決めこんできた私の稚い思い上りは何ということだっただろう。全部来てしまうなら、私はいつでも引受ける……そんな思い上りも私の中には長い間あった。
彼がどこにいても、私の身体につけた糸の端をしっかりと掌中に握っていて、糸の長さの範囲で、私を自由に踊らせていたように、彼のからだにつけられた糸のはしは、決して私の掌中にではなく、20年間彼の悲惨も、我ままも、許し難い不貞までふくめて許容して来た彼の妻の掌の中にしっかり握られているのだ。
夢に見てものっぺらぼうの顔とか、後姿でしかあらわれたことのないその人が、私には急に、怪物のようにふくれ上り、巨大なものになって、ずっしりと私の前に坐るのを見た。本当に別れた方がいいのだ、と思ったのはこの時からだった。
小説の中に8年間を再現する作業をはじめてみたら、私の見すごして来たつもりの小さな痛みや傷あとが、心の深みで決して消えてしまわず、毒々しく芽をふいているのを次々発見もしていくのであった。
普通の夫婦なら、話しも出来ず聞きも出来ないようなことまでしゃべったり聞いたりする私たちの間では、私の気持の経緯も何ひとつかくす必要はなかった。彼への思いがけないうらみつらみがふきだしている小説も見せながら、
「そっちのいい分も聞かせてよ」と、私は、膝をすすめていく。
男と手を切ると、たとえそれが双方の話し合いのうえでしたときでも、女は傷つけられるとも、女がむかしの恋人を友情をこめて語るのをきくのは、男がむかしの愛人のことをそうするよりはるかに稀だともいう。
けれども今、私は、彼との8年に訣別し、彼の机の並んでいない自分ひとりの部屋で、これを書きながら、やはりまだ、彼に深い友情と感謝と、なつかしさを感じずにはいられない自分を見つめている。
彼との8年に深いうらみや後悔や、かくされていた嫉妬や、憎悪や、待つことの切なさや、愛の不如意が、私の自分でも気づかぬ私の内部からえぐり出され、書かれることがあるとすれば、それは小説という別個の私の創作の世界の中でこそ、リアリティをもって定着づけられるのではないだろうか。
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同時代を生きる女性たちへの熱く、優しいメッセージを一冊に
【目次】
Ⅰ――教えて!寂聴さん 悔いなく生きるコツ
・この世に一人の自分を、自分が認めてあげる ×瀬尾まなほ
・95歳で得た気づき――。もう十分生きたと思ったけれど
・96歳、出会いを革命の糧にして
人は生きている限り変わり続けるのです
Ⅱ――人生を照らす8つの話
Ⅲ――人生を変える3つの対話
・「あの世」と「この世」はつながっています ×横尾忠則
・小保方さん、あなたは必ず甦ります ×小保方晴子
・家庭のある男を愛した女と、夫の嘘を信じた妻の胸の内は ×井上荒野
Ⅳ――心を揺さぶる愛と決意の手記
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