情熱的な恩師
人生、バレエ一筋に思える雑賀さんだが、「最初は好きでもなんでもなかったのよ」と笑う。踊りを始めたきっかけは、1941(昭和16)年、9歳の頃、近所に住む創作舞踏家の彭城(さかき)秀子さんからお稽古に誘われたこと。インドやハンガリーなどの民族舞踊を取り入れた、独特の指導法だったそうだ。
「お稽古場は昔の帝国劇場のレッスン室で、ピアニストである先生のお母様とチェリストのお父様の伴奏で踊るという……今思えば贅沢な時間でしたね」
しかし戦争の激化にともない、雑賀さんは父と二人で静岡へ疎開。知人から譲られた田んぼで慣れない米作りに挑戦したが、バレエで鍛えた足腰のおかげか「東京モンにしては、田植えも上手にできたんですよ(笑)」。
戦後は、出版業を営んでいた父がもう一度事業を始めたいと、家財を売り払って東京に戻った。雑賀さんは、彭城さんが結成したダンスチームに誘われ、米軍キャンプのクラブに出演するように。
「戦争中は栄養不良だったから痩せているし、もともと背も小さいから兵隊さんには幼く見えたんでしょうね。『ベイビーさん』なんて呼ばれて、チョコレートをもらったものでした。
この頃の私は、まだ人にいわれて踊っていただけ。だから踊れることに感謝することもなく、深夜の公演と中学生活の両立がつらくてチームを辞めてしまいました」
約1年後、学校の友人から誘われて小牧正英バレエ学園へ入ったのも、帰りに銀座であんみつが食べたいという不純な動機。しかし見る人の目にはその素質が明らかだったのだろう。18歳で小牧バレエ団(現・国際バレエアカデミア)に入団、2年後にはパリへ私費留学することに。
「そこで私、生まれて初めて自分の意思で人生を変えるという経験をしたのです」