母も被爆を

江波地区は原子爆弾の爆心地から約3キロのところ。(物心ついた頃には爆発でできた焼け跡はなくなっていたと記憶していますが、)遠くに原爆ドームが見えました。

『平和と美の使者として 森下洋子自伝』(著:森下洋子/中央公論新社)

《原爆ドームは、1915年に県物産陳列館として建設された。銅板ぶきのドームが上部に載った、一部鉄骨を使用したれんが造り。爆心地に近く、爆風がほぼ垂直に働いたために、大破したが、中心部が残った。96年に世界遺産に登録されている》

どうしてこのような無残な姿になったのでしょう。

母は被爆しており、具合が悪くなると市内の原爆病院(現在の広島赤十字・原爆病院)に行きます。3、4歳くらいの時は、祖母と曽祖母が入院していたこともありました。そこには、ひどいやけどや痛みに苦しむ人たちが大勢いらっしゃる。

間近に接すると、痛みや苦しみが、直接胸にきます。子供ながらに肌に感じるものがものすごくありました。こんなことがあってはならない。その時に強く思ったこと、それが今へとつながる平和への強い思いの原点だったと思います。