バレーでオリンピックを目指していたことも

父はサラリーマンで母が小学校の教師、2つ上の姉と6つ下の妹のいる家の長男として、大阪で育ちました。いつも外でドッジボールや野球をして遊んでいる、元気な子でしたね。

近所のおばさんがそれを見て、「あの子はパワーを持て余している」と思ったらしく、「うちの娘もやっている、バレーの練習に来ない?」と誘ってくれたのです。今だから言えますが、バレーにハマったというより、そこは一度入ったら辞められない厳しいクラブでして。当時はスパルタ指導も当たり前。ビンタが半端じゃない勢いで飛んできました。ただ、そういう練習を耐え忍んだからこそ、大阪で1位になって全国大会にも出場できた、と今では思っています。

中学でも、小学校のクラブのメンバー全員でバレー部に入部しました。顧問はバレーの専門知識がない先生だったし、特別運動神経のいい部員がいるわけじゃなかったけれど、大会に出るとなぜか優勝するんです。それは小学校時代のキツい3年間があったからでしょう。僕はエースということもあり、大阪ではスター選手扱いだったので、いずれは全日本の選手になってオリンピックへ……と、当時は本気で思っていました。

その頃の僕はすごく短気で、常にピリピリ。当時、バレーボール漫画『健太やります!』を読み込んでいて、そこに登場するヒール(悪役)にすごくハマりました。「遊びでやっているような下手くそな奴らは、バレーなんかしなくていいんだ!」みたいなことを言うその人物がなぜか好きでしたね。

僕自身、バレーで勝つか負けるかにすべてをかけていたこともあり、バレーの練習をおろそかにしている仲間が許せなくて。下手くそなプレーを認めてあげられなかった。そんな思いが言葉や態度にも出ていたのだと思います。

僕を見ていた姉は、「この子は口で言ってもまったく聞きやしない。寝ている間に、腕でも折ってやらないとわからない」と本気で思ったみたい(笑)。うちの女性陣はすごく正義感が強くて、そういう僕が許せなかったのでしょう。