「自分が俳優として実力を発揮できるのはやはり日本だろうし、いつか日本に戻って俳優ができたら、という漠然とした思いはずっとありましたね」

少しずつ認知度が上がり

韓国で、CMのほかはモデルとしてのスタートでしたが、事務所は僕をどう育てていくかという計画をしっかり立てていたようです。だいたいこれぐらいで韓国語が話せるようになって、何年後には韓国のテレビに進出して、みたいな感じで。

それから3年後かな、韓国ドラマのオファーがあったのは。僕らの世代のモデルって、ゆくゆくは俳優になる方が多かったんですよ。例えば、反町隆史さん、竹野内豊さんがそう。日本と韓国で同列に語ることはできないけれど、僕ももちろんいずれは俳優に、と思っていました。

ただ、演技の勉強なんてそれまでまったくしていませんでしたから、その都度、現場で習得していった感じでしょうか。今思えばメチャクチャでしたけど、ラッキーなことに最初に来た役が“日本から来たモデルの役”だったので、僕そのものだったのです。これも事務所の計画のうちだったのかな。(笑)

当時は「テレビに出る時はドラマって決めているので」と生意気なことを言って、バラエティは断っていました。しかしバラエティ番組を一度お断りした脚本家さんが、今度は僕にキャラクターを当て書きして、ドラマの話を持ってきてくれたのです。

向こうではすごく有名な枠のドラマで、重要な登場人物の一人だったので、僕の演技がどうのという以前に、勝手に認知度が上がっていって。「あ、ダンキンのヤツが今度はドラマに行ったんだ」という具合に、さらにみなさんに知っていただけるようになりました。

とはいえ、韓国語がおぼつかず他の役者にセリフを持っていかれたり、些細な気持ちの行き違いやどうしてもわかり合えない部分が出てきたりなど、仕事に行き詰まることもたくさんありました。心が折れそうなそんな時に大ヒット作となる映画『神弓-KAMIYUMI-』『バトル・オーシャン 海上決戦』への出演が決まり、露出が格段に増えていったのです。

しかし、韓国語のネイティブじゃない限り、自分ができる役は限られている。このまま頑張ったとしても先が見えている、というのは早い段階から感じていました。自分が俳優として実力を発揮できるのはやはり日本だろうし、いつか日本に戻って俳優ができたら、という漠然とした思いはずっとありましたね。

そんななか2015年秋の釜山国際映画祭で今の事務所のスタッフと出会い、日本に戻ることになったのです。