私の父親は宍戸錠なんだ
仕事のうえでは、父と私は俳優とマネージャー。親子だという感覚は排除していました。酔っ払った父から「家の鍵が開かないから、すぐ来てくれ」と連絡があり、駆けつけると、泥酔した父の横に泥酔したきれいな女性がいて(笑)。その女性を部屋に運びながら、「なんで私が父の愛人の面倒を見なきゃいけないんだ」と内心思いつつ、その思いを打ち消して、あくまでマネージャーとしてふるまうわけです。
ここ数年は、父なりに自分の衰えを感じていたのでしょう。老いへの葛藤から、いわゆる「キレる」状態になり、暴れることもありました。「最近、いろいろなことを忘れる」とも言っていました。「パパの年齢だと、みんなそうだよ。でも、私のことがわかるんだから、問題ないじゃない」と答えていたのですが──。
ただ、父は若い頃からしょっちゅう爆発していたので、とくに大きな変化があった感じもしません。それでも近くで世話をしていると、ヘトヘトになります。あの時期は、一種の闘いでした。
その頃からですね。私のなかで里子を迎えようという考えが固まったのは。父のためにも孫の顔を見せたいと思い、里子を迎えるべく、4年前に登録をしたのです。
2年くらい前から、父との闘いはだんだん収束していきました。一番苦しんでいるのは父です。だったら、私が母の代わりになって安心させてあげなくてはいけない。そんなふうに私の心が切り替わったら、父はどんどん私を頼るようになってきました。そして私が「母親になれた」と感じるようになった時、縁があって、2019年5月に正式に私たち夫婦は里子を迎えました。
息子を連れていくと、父は本当に楽しそうでした。モデルガンを渡して「これ、やるから」と言うので、「ちょっとまだ早いわよ」と私が止めたり。物おじしない子なので、「この子には役者の素質がある」と、うれしそうにアクションの指導もしていました。その様子は、世間一般のおじいちゃまと孫そのもの。父にとっても初めての“家族団らん”の時間だったのかもしれません。
私は生まれて初めて、父親を得ました。それまで宍戸錠が自分の父親だと実感したことは、人生で一度もなかったので。最後の最後、「私の父親は宍戸錠なんだ」と思えて、本当によかったです。
私にとって父は、一番愛した男でした。2番目が弟の開。3番目が夫です。夫もそのことはわかってくれています。穏やかな人だからこそ、エキセントリックで個性が強い父との間でクッションのような役を果たしてくれました。
父は里子を迎える少し前から、食事を運んで世話をすると、「ありがとう」と言うようになりました。56年生きてきて、1回も父から「ありがとう」と言われたことも、褒めてもらったこともなかったのに。
思えば亡くなる前日も、私が帰る時、「ありがとな」と言ったので、「気持ち悪いからやめてよ」と返したのです。それが父との最後の会話になりました。
これからは、あちらで母とゆっくり、仲睦まじく過ごしてほしい。母が亡くなってから私が父を教育したので、今度は大丈夫だと思います。
唯一、父にも、そして私にも心残りがあるとしたら、「90歳になったら、映画で90歳の殺し屋の役をやりたい」と言っていたのに、実現できなかったことです。すでに監督と話もしていたのに──。父のことですから、先に逝った昔の俳優仲間たちとあの世で派手にアクションをしているかもしれませんね。